3.好奇心旺盛なクロム

 広い海原のど真ん中で、深色は巨大なシャチと真正面から向かい合っていた。その様子は、傍から見れば恐ろしい光景に映ってしまうかもしれない。


 しかし、断じて今まさに彼女が獰猛どうもうな海のハンターに頭からかじられようとしている危機的瞬間を捉えているわけではない。


「……しゃ……シャチ、さん?」


「そう、ボクはシャチ。でもそれは人間たちの付けた呼び名で、ボクの本当の名前は『クロム』って言うんだけどね。よろしく」


「はぁ……ど、どうも」


 クロムと名乗るそのシャチは、目の前に現れれば身もすくんでしまう程に図体ずうたいが大きく迫力があった。


 ……にもかかわらず、その喋り方や声はまるで小柄な少年のようで、外見と中身の声のギャップに、深色はなんとなく肩透かしを食ったような気分だった。


「それにしてもさぁ、シャチのことも知らなかったなんて、ボク凄くショックだよ。せめてその名前くらいは覚えておいてほしかったなぁ」


「あ、はい、ごめんなさい。……あの、一つ聞いてもいい?」


「うん、何?」


 深色はその場で座り込んだまま、クロムの鼻面はなづらを指差して、簡潔な質問を飛ばした。


「――何で魚が喋ってんの?」


「魚とは失礼な! これでもボクはその辺に泳いでる普通の魚とは違う、世にも珍しい特別なシャチなんだぞ。だからこうして人間である君とも会話ができるし、君の言ってる言葉だってバッチリ理解できるのさ!」


 誇らしげにそう語るクロムの話を聞いていた深色は、彼を指差したまま答えた。


「なるほど、じゃあつまり君の言葉が聞こえるのは、私の耳がおかしいんじゃなくて、人の言葉を喋ってる君の口がおかしいんだ」


「……なんか妙にしゃくに障るような言い方するけど、まぁそんなとこだよ。でもさ、君だって十分におかしいよ。凄く高い所から落ちてきたってのに、怪我一つしていないじゃないか」


 どうやらクロムは、墜落する飛行機から投げ出された深色が、海に落ちるまでの一部始終を目撃していたらしい。


「それは単純に運が良かっただけでしょ。自分でもどうして無事だったのか不思議に思うくらいだけど……でも、それでもやっぱり人の言葉を喋るサメ君の方がよっぽどおかしいと思うな」


「だからボクはサメじゃないって言ってるじゃん!」


 クロムは怒りを表すようにプシュウと頭から潮を吹く。


「もう、何でボクのことをサメだって決め付けちゃうのかなぁ?」


「いや、だって私、水面の上を背ビレがこうツーって流れていくような泳ぎ方する奴って、大抵全部サメだって思ってたんだもん……」


 前に見たぼうサメ映画でそんな描写があったからさ、と深色は軽い言い訳をする。


「浅い知識だなぁ……せめてもう少し詳しく覚えようよ。……あと、ボクの名前はクロムだからね!」


 そう言われた深色は、しばしの間「う~ん」と人差し指を口元に当てながら考え、やがて思い付いたように指をパチンと鳴らして答えた。


「あ、じゃあクロちゃんで!」


「何で渾名なの!?」


「だってその方がカワイイんだもん。私の名前は瑠璃原るりはら深色みいろ、よろしくねっ」


 深色はクロムに向かって自分の名前を伝え、色目を使うように可愛くウインクして見せた。


「ってかさ、今の凄くない? 私、生まれて初めて人以外の生き物の前で自己紹介しちゃったんだよ。なんか感動するよね!」


「……確かに、ボクだって人間に自分から名前を明かすのは初めてだけどさ。自己紹介することの何処に感動する要素なんてあるの? ボクには君が心ときめいている理由がよく分からないね」


 クロムは訳が分からないというように頭を振って、大きな溜め息を吐いた。


 ――海の真ん中で偶然出会ってしまった一人と一匹。傍から見ていると、種が違うこともあって、二人はまだ互いに馬が合っているとは言い難いように見える。


 けれど深色にとって、喋るシャチとの出会いは、ある意味で幸運だったのかもしれない。例え人であらずとも話し相手ができたおかげで、彼女は自分が遭難している身であることも忘れ、シャチのクロムと他愛もない会話を交わして、一人でいる孤独を大いに紛らわせることができたのだから。

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