47.たとえ火の中水の中

 ゴンゴンゴンゴン……と、何かが突き上げて来るような音が響き渡る。


 石油採掘用ドリルの伸びるリグの真上に取り残されてしまっていた作業員の男は、その耳触りな音を聞いて震え上がった。彼にとってその音は、まるで死を告げる悪魔のささやきのように聞こえた。地下に埋まったドリルから伸びているパイプが油圧に耐えきれず膨張し、今にも破裂しようとしているのだ。そうなれば、一気に大量の石油が噴出して、ここ一帯は瞬く間に火の海と化すだろう。


 取り残された男は自ら死を覚悟していた。さっき爆発に巻き込まれた時、彼の両脚は落ちてきた瓦礫がれきの下敷きになってしまっていた。自分だけの力で動かそうにもびくともしない。まさに絶体絶命である。


「ちくしょう……せめて死ぬ時くらい家族に看取みとられながら逝きたかったぜ……」


 炎がすぐ足元にまで迫り、男が力尽きたような声で諦めの言葉を口にした――


 その時だった。


 部屋の天井が一気に崩落して、ぽっかり空いた穴から、海水によって形作られた半透明の青い竜がひょっこりと顔を覗かせた。


 仰天する作業員に向かって、竜は大きな口を開け、彼に向かって海水を吐きかけた。おかげで、彼を焼き尽くさんと迫る炎は瞬く間に消火され、作業員は一命を取り留める。


「ぷはぁっ! 良かった間に合った!」


 すると、海水で形作られた水竜の口の中から、一人の少女が顔を出した。辺りを見渡し、びしょ濡れになった作業員を見つけた彼女は、「やった、見つけた!」と歓喜の声を上げる。


「あ……あんたは誰だ?」


 突然水竜の中から現れた少女を見て、作業員は何事かと目をしばたたかせている。


「私は瑠璃原深色。素性は説明できないけど、あなたを助けに来たの。この地獄みたいな場所から逃げたかったら、私の言うことを聞いた方が身のためだよ」


 深色はそう言って、作業員の足元を塞いでいた瓦礫を軽々と持ち上げてどかすと、男の手を持って立ち上がらせた。


「大丈夫? 怪我とかない?」


 そう問いかけられ、作業員の男は「あ、ああ……」とほうけた顔のまま答える。


 部屋の周囲は炎に包まれ、防護服を着ている彼でさえ熱いと感じるほどの熱気が満ちているというのに、薄い一張羅いっちょうら(スク水)しか身に着けていない少女は、そんな灼熱の中でも平然と立っていて、露出した肌には火傷の一つも見当たらない。


 彼女が一体何者なのかは分からないが、作業員の男の目には、助けに来てくれた彼女が、まるで地獄の世界に降り立った救いの女神のように見えていた。


「……さて、ここもヤバそうだから、早いとこ逃げよっか!」


 そう言って、作業員の手を取る深色。


 しかしその時、タイミング悪く限界まで膨張していた石油パイプが、とうとう悲鳴を上げて張り裂けてしまい、パイプを固定していたボルトが勢い良く弾け飛んだ。


「あっ、危ねぇ! パイプが――!」


 男が警告するより先に、膨れ上がったパイプが音を立てて張り裂け、石油が勢い良く噴き出した。


 まるで噴水のようにあふれた油は、周囲の炎に触れてたちまち引火し、瞬く間に巨大な火炎の濁流となって深色の方へ押し寄せてくる。


「うわ、ちょっ!」


 これじゃ炎に飲まれる! ――そう思った刹那、深色の脳裏にとっさのひらめきが走った。


 彼女は手に持っていた三叉槍トライデントを迫り来る火炎流に向かって突き出し、槍の中央を軸にして思いきりぶん回した。


 すると、火炎流は高速で回転する槍から生み出された風圧によって押し返され、深色を避けていくように四方へ拡散する。


 深色が編み出したこの旋風せんぷう防御法のおかげで、背後に居た作業員の男は辛うじて襲い来る火炎流を回避することができた。


 しかし、それでも全てをはね返すことはできず、燃える油が深色の体に飛び散って、彼女の全身は瞬く間に火達磨ひだるまと化す。


「いやぁっ! ちょ、熱い熱いっ! 水竜ちゃん何とかしてよっ!」


 主人の叫びを聞き付け、かたわらにひかえていた水竜が、火達磨になった彼女に向かって海水を噴きかけた。シュウシュウと蒸気が舞い上がって深色の体にまとわり付いていた炎は鎮火し、周囲に白煙がもうもうと立ち込める。


「お、おいあんた! 大丈夫かよ⁉」


 作業員の男が思わず声を上げた。全身を炎に焼かれ、火は消し止められたものの、あれだけの炎を全身に浴びてしまっては、もう助からないだろう。男はそう感じて歯噛みした。


 ――しかし、男の考えは早計だった。なぜなら次の瞬間、立ち込める蒸気の奥からうっすらと小さな人間のシルエットが浮かび上がり、もやが晴れた時、そこにはすすにまみれて咳き込んでいる深色が立っていたのだから。


「ああもうビックリしたぁ……危うく丸焼きにされるところだったよ~」


 全身火だるまになったというのに、煤で真っ黒になってしまっている以外、まったく無傷で立っている少女の姿を前に、作業員の男は驚愕のあまり言葉を失った。


「……あ、あんた、一体何者なんだ?」


「詳しい話は後回し! ほら、あなたも早く水竜ちゃんの中へ急いで!」


 男は彼女の言われるがままに、おそるおそる水竜へ手を伸ばした。すると、海水でできた水竜の体は、男の手をあっという間に飲み込んでしまう。


「すげぇ……一体どんな原理で動いてんだ?」


「ほら、ボケッとしてないで早くっ!」


 深色の手に引かれ、男は全身を水竜の中におさめた。


「それじゃ、全速力で戻るよ!」


 深色は持っていた槍を突き出し、前方へ高くかかげる。途端に槍は水竜の中を魚雷のごとく高速で進み、深色と作業員の男を連れたまま、業火に巻かれた部屋から脱出した。

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