29.アイギスの盾

 濃紺の深海の中を、一匹の巨大な白鯨が腹を海底に沿わせて滑るように進んでゆく。


 正確に言えば、それは白の鋼鉄に覆われた盲目の鯨だった。巨大な影から聞こえてくるのは、鯨特有の角笛ホーンのような鳴き声ではなく、周囲の地形を把握するソナーの電子音と、海水を掻き回すスクリュー音。


 ソナーは盲目な鯨に視界を与え、スクリューはヒレの無い鯨に前へ進む推進力を与えていた。


 ――全長百メートルを超える純白の原子力潜水艦「モビィ・ディック」は、水深約千五百メートルの海底を静かに進んでいた。地上で造られた原子力潜水艦では、千メートルまで潜ってしまえば船体がたちまち悲鳴を上げて水圧に耐えきれず、無惨に押し潰されてしまっていたことだろう。


 しかし、このモビィ・ディック号はアテルリア王国の先進技術を用いた改造が施され、深度二千メートルまで潜航しても大丈夫なほどに頑丈な造りとなっていた。


 潜水艦の艦内では、百名を超える海底人、そして地上人の乗組員たちが協力して舵を取り、エンジンを動かし、各々任された各部機関の保守を務めていた。


 狭い館内通路の中を、分厚いコートを肩に纏い、艦長帽を深く被った一人の男が、背後に複数の部下を引き連れて歩いてゆく。


 歩く先には巨大な円形ハッチがあり、プシュウとエアーの抜ける音がして、分厚いハッチが開く。


 そこは広い格納庫で、沢山の積み荷や調査機材、武器、更には掘削機らしき巨大な機械までが並んで置かれていた。


 そんな格納庫の一角に、あの大蛇のような機械の四つ脚を持つ化け物の鎧が、天井のウインチから伸びる鎖に繋がれ吊り上げられていた。四肢の一本一本は力無くだらりと垂れ下がり、その姿はまるで干からびたタコの標本のように見える。


 そして、アーマースーツの頭部に装着された楕円形の巨大なヘルメットは、先の神殿での戦いで大きく破損し、亀裂による穴ができてしまっていた。


 そんな痛々しい傷跡を残すアーマーを、物憂げな目で見つめている一人の少女の姿があった。


 魅力的な細身の体躯にピッタリと密着する黒のウェットスーツを着たその少女は海底人であり、空気の充満した艦内でも水中呼吸ができるよう、海水を満たしたヘルメットを装着していた。


 その海底人の少女は、忙しなく倉庫内を歩き回る船員たちとは異なり、何故か一人だけ車椅子に腰掛けていた。ウェットスーツによって引き締まった魅力的な脚は、どうやら立って歩くことを忘れてしまったらしく、もはや主人の言うことを聞くこともなく、車椅子の上でそっと折り重なったまま動かない。


 車椅子の少女は、金魚鉢のようなヘルメットの内側でコバルトブルーの髪を揺らし、前髪の隙間から蒼い眼を覗かせて、自分の装着していたアーマースーツをじっと睨み付けていた。少女の右頬には、神殿で深色と戦い、ヘルメットを突かれた際に刻み込まれた痛々しい傷跡が走っている。時折疼く頬の痛みが、あの時の海底神殿での戦いを思い出させたのか、少女は悔しげに表情を歪め、ぐっと唇を噛み締めた。


「アッコロ」


 背後から名前を呼ばれ、少女は振り返る。コバルトブルーの前髪がヘルメットの内側でふわりと揺れた。


「――っ、艦長」


 アッコロは、今自分の乗っている潜水艦の長に向かって車椅子を素早く直らせると、彼に向かって律儀に敬礼した。男は艦長帽のつばを片手で引き下げて応じる。その男の目元は帽子のつばに隠れて見えず、口元には紳士らしい髭が貯えられ、痩せた頬はくぼみ、日に焼けた褐色の肌をしていた。


「……オルトとノルマンは?」


 男はアッコロにそう尋ねた。彼が口にした二人の名は、神殿襲撃時にアッコロに付き従ってくれていた、あの二人の部下のことだった。


 アッコロは黙ったまま首を横に振った。


「……そうか」


 男は、尊い犠牲となった二人の乗組員に黙祷もくとうを捧げるように、しばらく黙ったまま俯いていた。


 潜水艦モビィ・ディック号の艦長ヴィクター・トレンチは、寡黙ながらも情に厚い男だった。彼は地上人、すなわち人間であり、かつては海軍に所属して潜水艦での任務をこなし、功績を重ねて艦長にまで上り詰めた優秀な潜水艦乗りであったらしい。


 そんな彼はカリスマ性に優れ、地上人と海底人という異種族の入り乱れたこの集団を見事一つにまとめ上げてしまっている。


 海底人たちも、全員が彼に敬意を示し、本来ならば水中で過ごすはずの彼らも、空気の充満した船内で、わざわざ海水の満たされたヘルメットを装着して過ごさなければならないことに文句の一つも言わず、黙々と働いている。それだけ、海底人たちからしても、このトレンチと呼ばれる男は尊敬に値する人物なのであった。


「スーツの具合はどうだ?」


 艦長からそう尋ねられ、アッコロは答える。


「酷くやられた。特にヘルメットの損傷が酷いわ」


 吊り下げられたアーマースーツの引き裂かれたヘルメットを見て、艦長は「ふむ」と顎に手を置いて損傷の程度を見定める。


「……ゾルゲン、直せそうか?」


 艦長の問いに対し、彼の背後に控えていた部下たちの中から一人、背が低くでっぷりとした体格の海底人が歩み出る。


「へへ、お安い御用でさ、艦長。この『何でも屋』ゾルゲンにお任せいただければ、例えスクラップにされても綺麗に復元させて見せますぜ、へへへ……」


 ゾルゲンと呼ばれる海底人の目元には、牛乳瓶の底のように分厚く丸いゴーグルが装着され、そのゴーグル一杯に映った黒い瞳がキョロキョロと動き、吊り下がったアーマースーツの損傷箇所を素早く検分してゆく。その姿は、傍から見ればさながら眼鏡をかけた河豚ふぐのようだ。


「何せこいつは、王国の最新兵器である多脚戦車『タコツボ』を改良して作り上げたオイラの最高傑作だ。スクラップになるほどヤワな造りはしてませんぜ」


 ゾルゲンは吊るされたアーマースーツの周りをくまなく観察し、改修しなければならない箇所を手元の電子端末にメモしてゆく。


「あのずんぐりむっくりな醜い格好をしたデカブツ戦車を、ここまでコンパクトなスーツにまとめ上げられる奴はそうはいねぇ。これだけ軽量化させても、その威力は改良前とほとんど変わらない。こいつを着込めば、たった一人で国軍の歩兵大隊だって相手にできますぜ、へへへ……」


「おい、ゾルゲン」


 ぶつぶつと小言を呟きながらスーツを検分していたゾルゲンに向かって、艦長が声をかけた。


「直せそうなのか?」


「へへ……お任せください艦長。手酷くやられちゃいるが、修理に時間は取らせませんぜ」


 ゾルゲンはそう言って気味の悪い笑みを浮かべる。


 ずんぐりむっくりなのは、あなたも同じでしょう? と、アッコロは心の内で密かに毒を吐いた。


「あの次期候補のアクアランサーは手強そうだ。奴に対抗できるだけの協力な装備が必要になる。更なる改良は可能か?」


 艦長がそう問い掛けると、ゾルゲンは口元から白い歯を覗かせ、不気味に笑う。


「艦長殿の頼みとあれば、何なりとこなして見せますぜ。アーマーの装甲とヘルメットの強度向上、そしてそれに伴い放つ熱線の威力もカサ増しさせて、更にはサブウェポンとして小型魚雷に電撃装置付きのワイヤーランチャーを各脚に搭載しても面白そうだな……ふへへへへっ!」


 ゾルゲンは再びぶつぶつと小言を呟きながら薄ら笑い、スーツをどのように改造するかについて思考を巡らせているようだった。が、その様子は周りから見れば完全に頭のおかしい機械オタクにしか見えなかった。


「アッコロ、新たに選ばれたアクアランサーはどんな奴だったんだ?」


 トレンチ艦長からそう尋ねられ、アッコロは答える。


「……私と同い年くらいの女の子だった。最初、あの子はまだ槍を手にしてはいなかったの。……でも、仲間を庇う為に、あの子は私が放ったレーザーを受けて、瀕死の重傷を負ってしまった。そして、気付けばもう彼女は槍の放つ光に取り込まれてしまっていた」


「死に際を狙って槍に勧誘されたか。全く、引き込むのが上手い奴だ」


 そう答える艦長に、アッコロはさらに告げる。


「――それにあの子、海底人じゃなかったわ。人間よ」


「人間だと?」


 それまで帽子のつばに隠れて見えなかった艦長の目がカッと見開いた。


「人間の娘が、どうして海底神殿なんかに来られたんだ?」


「それは分からない。おそらく、彼女がアクアランサーになる以前から、水中で活動できる生まれつきの特殊な体質を持っていたのかもしれないわ」


 アッコロは先の神殿での戦いのことを思い出しながら、言葉を続けた。


「私、槍を見つけたあの時、酷く動揺してしまっていた。あの忌々しい過去が思い出されて、一刻も早くどうにかしないといけないと思って、躍起やっきになってしまっていた。……それで、あの子の仲間が槍の前に立ち塞がった時、本気で焼き殺してやろうかと思ったわ」


 そう話すアッコロの目には冷酷な光が宿っていた。そんな彼女を、艦長は黙ったまま見つめている。


「でもあの子、自分が死ぬことも厭わずに、私の攻撃から仲間を庇って負傷した。そして、アクアランサーになる道を選んでしまった。きっと……彼女が槍を取った理由は、アクアランサーという地位とか名誉とか、槍の与える力への渇望とか、そんないやしいものじゃない。……ただ、仲間を守りたい。その純粋な思いだけで、彼女はアクアランサーになったのよ」


 その言葉を聞いた艦長は、帽子の奥に輝く目を細めた。


 アッコロの話は続く。


「アクアランサーとなった彼女を、撃つこともできたの。あの子が槍を構えて向かってきた時、もうレーザーのエネルギー充填は完了していた。撃とうと思えばいつでも撃てた。……でも、撃てなかったの。あの子の……深色の、淀みの無い無垢な瞳を見てしまったから」


 アッコロの瞳に燃えていた炎は、いつの間にか悲しげな弱々しい光へと変化していた。その表情は、深色と初めて対面した時に見せた陰鬱な表情と、全く同じものだった。


「………そうか。それは、相当に手強そうだな……」


 艦長は腕を組んだまま、唸るようにそう言った。


「だが、例え相手が誰であろうと、次期アクアランサーに選ばれた者を放っておくわけにはいかない。俺たちには俺たちの果たすべき使命があることを忘れるな。――『腰抜けの王と、無能な操り人形に、容赦なき鉄槌を』!」


「……容赦なき鉄槌を」


 アッコロは艦長の唱えたスローガンの言葉を最後のみ復唱したが、その声に覇気は無く、消え入るように船内の喧騒の中に紛れていった。

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