22.素晴らしき海の世界

「………う~ん、この地図によれば、こっちの方角で合ってると思うんだけどなぁ」


 深色はふわふわと海中を漂うセルリアンブルーの髪を掻きむしりながら、腕輪から発するホログラムの立体地図と睨めっこしていた。すると、人間の体を得たクロムが、深色の腕を掴んで彼女の行く方向とは真反対の方を指し示す。


「何言ってるのさ。そっちじゃなくてあっち! この辺りはそんなに海流が強くないから、普通に泳いでいけば一日くらいで着く距離だと思うけど」


 クロムがそう助言すると、深色は「わ、分かってたわよ! こっちでしょ?」と頰を赤くし、恥を隠すように知ったかぶって地図を閉じる。


「けど、普通に泳いで一日かかる距離でも、この槍を使えばあっという間に着いちゃうでしょ! 多分!」


「はぁ……その馬鹿みたいに楽観的な考えが、一体何処から湧いてくるのか知りたいよ」


 クロムは呆れたように頭を横に振って答える。


「つべこべ言わずに行きましょ。今起きてる海のごたごたを解決しない限り、私は地上に戻れないんだから!」


 そう言って、わくわくと胸を躍らせながら泳いでゆく深色の姿を見ていたクロムは、訝しげな顔をして彼女に問い掛ける。


「……ねぇ深色、さっきまでアクアランサーになるのは嫌だとか言ってたくせに、何だかんだ言って、槍の力が使えることを楽しんでるでしょ?」


 図星とばかりにクロムにそう言い当てられ、ぎくっ! と肩を震わせた深色だったが、聞いていないふりをして振り返る。


「うん? なぁに、何か言ったぁ? あぁもう聞こえな〜い! ほら、モタモタしてると置いてっちゃうぞ!」


 深色は手に持っていた三叉槍を大きく前に突き出し、まるでカジキの如きスピードで海中を飛ぶように泳いで行ってしまう。


「あっ! ちょっとフライングはズルい! 待ってよ!」


 クロムが慌てて後を追いかけた。しかし、追いかけるクロムも、通常のシャチとは比べものにならないくらいの速さで泳ぎ、瞬く間に深色との距離を縮めてゆく。


「おぉっ! お主もなかなかやるではないかぁ!」


 追いついてきたクロムに向かって深色が上から目線で言葉を飛ばしてくるものだから、カチンときた彼は負けじと言い返す。


「何言ってるのさ! これでもボクは海のハンターなんだから、泳ぐスピードには自信があるぞ。――それに、この体になってから、身体中からもりもり力が溢れてきて、疲れを全く感じないんだ。これなら水平線の果てまでも余裕で泳いで行けそうな気分だよ!」


 三叉槽の力によって、人間の姿を得たクロムだったが、槍が彼に与えてくれたのは人の姿形だけでなく、深色に匹敵するパワーとスタミナも付与してくれたらしい。


「この分なら、きっと日が暮れる前には王都に着けるはずだよ。ボクが案内してあげるから、しっかり後を付いて来ること。途中道草食ってると置いてくからね」


「はぁい」


 ――こうして、二人は延々と続く海の世界へ飛び出した。これまで地上の世界しか見たことのなかった深色にとって、海の中は、地上とは全く異なる別世界が広がっていた。水族館のガラス張りの水槽で泳いでいる魚たちなど比ではない程の、ありとあらゆる海の生物が自由気ままに駆け回り、海底には色とりどりの珊瑚礁が、海流の流れに合わせて静かに踊っている。


 海中を漂う小さなプランクトンが、外から漏れる光を受けて夜空に煌めく星のように瞬き、プランクトンを求めてやって来た何百匹ものイワシの群勢が、二人の行く手を遮るように覆い取り巻き、その群れる小魚たちを狙って、子どもを連れ添ったクジラの親子が現れ、腹の下をくぐり抜けてゆく二人へエールを送るように、甲高い鳴き声のファンファーレを奏でてくれた。


「へぇ~~……なんか、ちょっと感動しちゃったかも……」


 深色は、後から次々とやって来るクジラの群れの間を縫うようにして泳ぎ、数十匹のクジラが海中を進む壮大な光景を目の当たりにして、思わず感嘆の声を上げた。


「何言ってるのさ、こんなの何処でだって見慣れた光景だよ。これよりももっと凄い景色を、ボクはごまんと見てきたんだ、例えば――」


 そう言ってクロムの自慢話が始まったが、深色は聞いてすらいなかった。――というのも、少し遠くの方から、ゆらゆらと波線を描いてこちらに泳いでくる幾つもの影が、彼女の目に留まったからだ。


「……あれは、イルカ? イルカだよクロちゃん!」


「だから、そんなのもこの辺じゃ普通に見られる……って深色! 聞いてんの⁉︎」


 クロムの背後から離れ、イルカの群れに向かって泳いで行ってしまう深色を、彼は慌てて追いかける。


 イルカの群れは海面すれすれを泳ぎ、時折り水面から飛び出しては大きな弧を描いて水飛沫を上げる。数十匹がそれを繰り返しながら進んでゆく姿は壮大かつ美しく、まるでイルカたちが一団となって一つの芸術を披露しているよう。


 深色はその集団の中に混じり、彼らと息を合わせて水面から飛び上がり、大きく跳躍する。冷たい風が頬を撫で、体に打ち付ける水飛沫が心地良い。


 完全にイルカたちと意気投合した深色は、空と海の境界を縫うように泳いだ。こんなにも清々しい気持ちになったのは、何時ぶりだろう? それまで遠くから眺めることしかなかった広い海が、実はこんなにも楽しい場所であったなんて!


「こら待て~~っ! ボクの背中から離れちゃダメだって、さっき言ったばっかりだよね⁉︎」


 後ろから怒ったクロムの声が追いかけてくる。けれどそんなの何処吹く風で、深色はひたすら水面を蹴り、より高いジャンプを繰り出してゆく。


「あははははっ‼︎ なに~? 聞こえないよ~っ! それっ!」


 勢いをつけて大きく跳躍し、イルカたちの誰よりも高く、そして遠くを目掛けて飛んで飛んで――そして再び着水!


 ――の、筈だったのだが……


「ぶへっ‼︎」


 思い切り飛び込んだ所は海ではなく、白い砂浜の上だった。砂の中に思い切り頭から突き刺さり、半身埋もれて脚だけが外に突き出してしまい、まるで犬神家のようなあられもない姿となってしまう深色。


 彼女は力任せに勢い良くジャンプしたせいで、イルカの集団を軽く飛び越え、更にその先にあった無人島の砂浜まで砲弾の如く飛んで行ってしまったのだった。


「あ〜あ、もう……だから言わんこっちゃない」


 クロムは呆れて頭を抱え、深色の突き刺さった砂浜まで急いで泳いでいった。

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