20.クロムの変身

「……それにしても、この槍の秘める力って、一体どんなものなのかしら? 怪我を治して、尋常じゃないパワーを与えて、おまけに着ている衣服まで一新しちゃうなんて。……まぁ、衣服のセンスについては文句しか出ないんだけどさ……」


 「――それに、おっぱい全然大きくなってないし……」とぶつぶつ文句を溢しながら怪訝そうに眉をひそめ、身に纏うタイトな衣装(特に胸元)を見回す深色。この全身を包む薄っぺらい衣装が何でできているのかは分からないが、先程の激しい戦いでも破れなかったところから、かなり頑丈な素材で作られていることは間違いない。


「黄金の三叉槽は、持った人のどんな願いも叶えてくれるって噂があるんだ。それだけの力があれば、怪我を直したり、新しい衣服を着せたりなんてことは容易いことなんじゃないかな? でも、そんな槍の力でも、君の胸だけはどうにもならなかったみたいだけど」


 無愛想なクロムの言葉に、深色は涙目になって膨れっ面をする。


「む〜っ……なら、クロちゃんも持ってみればいいじゃん。ひょっとしたら、クロちゃんの願いも叶えてくれるかもしれないよ」


 深色はそう言い返して、手に持っていた黄金の槍を唐突にクロムに差し出す。


「はぁ? ……もう、君は本当に馬鹿だなぁ。ボクに手なんてあるわけないじゃないか」


 クロムは呆れてそう答え、両脇に付いたヒレをパタパタさせた。


「あ、そっか。……なら、口にくわえてみては?」


 深色は槍を横にして、クロムの口元に差し出す。


「えぇ~……そんなことでボクの願いなんか叶えてくれるわけないじゃん」


「物は試しよ。ほら、槍の柄をそっと噛んでみて。はい、お口あ~ん……」


「な、なんか神聖な物に噛み付いたりしたら、バチが当たりそうな気がするんだけど……」


 クロムは乗り気のない言葉を返したが、深色に強く勧められ、仕方なく尖った牙の並ぶ大きな口を開いて、三叉槍の柄をそっと噛んでみた。


 ――と、その刹那、槍がパッと周囲に金色の光を放ち、辺りは真昼のような明るさに包まれる。金の光を宿した粒子が槍の長い柄からサラサラと溢れ出て、まるで金粉をまぶしたベールのようにクロムの巨体を取り巻いていき、瞬く間にその全身を包み込んでしまう。そしてぎゅっと収縮したかと思うと、それまでクロムをシャチたらしめていた外形――尾ヒレ、背ビレ、尖った鼻先に至るまで、その全ての輪郭が崩壊していき、新たな姿へと形状が変化してゆく。まるで、一度作った粘土の作品を崩して、再び新しい作品を練り上げてゆくように、クロムは槍の放つ光によって「変身」していた。


 やがて変身が終わり、それまで槍の放ち続けていた金色の光も消えてゆく。


 そして槍の光が失せた時、生まれ変わったクロムの姿が、深色の目に映った。その姿を見た彼女は、驚きのあまり声も出せず、ぽかんと口を開けたまま彼を見ていることしかできなかった。


「………あぁ、びっくりしたぁ。本当にバチが当たっちゃったのかと思ったよ。もう、あんまり変なことさせないでよ深色。……って、あれ? 深色? 何でそんなに驚いた顔してるのさ?」


 クロムはそう言って、ずっと口にくわえたままだった槍を何気無く両手で掴んで口から外す。


「――ん? あれ? ボク……槍、持ててる。どうして……」


 クロムはここでようやく自分の身に起きた異変に気付き、槍を持つ両腕をまじまじと見つめた。


「これって……ボクの、腕? それに……身体……あ、脚まで付いてる」


 二本の腕と脚、そしてその先に付いた五本の指まで全て、クロムの思った通りに動いた。けれども普通の人間とは容姿が異なり、腕から指先までが全て真っ黒で、やけに肌触りがツルツルしていた。全身も同じく滑らかな肌で覆われ、筋肉質で細身な胴部の背中には黒、腹部には白く太い筋の通った白黒モノクロのツートンカラーが目立っている。


 そして頭部には、一見目と見間違えてしまいそうな二つの白いアイパッチ。しかし本物の目はそのアイパッチの真下にあって、そこから黒々とした艶のある丸い目が覗いていた。毛が一本も無い頭上には、長いヒレがサイの角の如く生え伸び、両耳にもそれぞれ大きなヒレがだらりと垂れ下がっていて、その見た目は、まるで垂れ耳をしたウサギそっくりだった。


「……ねぇ、これって………これってもしかして……」


 クロムは自らの姿を見て、驚愕のあまりその大きな口を開き、ずらりと並んだ鋭い三角牙を覗かせた。彼がまだシャチだった頃の名残なのだろうか? 彼のお尻からは太い尻尾が伸びていて、尻尾の先に付いた小さな背ビレが、本人の興奮した心情を表現せんばかりに激しく左右に振られていた。


「―――ボク、人間になっちゃったよぉっ‼」


 クロムの放ったその声は、それまで静寂に満ちていた海底の全域に渡って広くこだまし、深海に住む生物が、皆仰天して飛び上がってしまう程に大きかったという。



「ねぇ深色、見て見て! ボク本当に人間になっちゃった! ほらこの腕! この脚っ!」


 クロムが興奮するあまり高速で深色の周りをぐるぐる泳ぎ回るものだから、深色は目を回してしまった。


「凄い! こんなこと前代未聞だよ! きっと魚類史に残る一大事件じゃないかな? 見てよこの手脚! それにこの手先に付いた五本の小さな指! うはははっ‼ こりゃ面白いや!」


「あ、あの、クロちゃん? ……ちょっと、一旦落ち着こう! はい、深呼吸して~」


 深色がそう言ってクロムを抑えようとするが、すると彼は首を傾げて「深呼吸って何?」と不思議そうに尋ねてくる。


「えっと、深呼吸っていうのは、大きく息を吸い込んでお腹の中に空気を溜めて――って、ここは水中だから空気なんてないのか……」


 深色は困ってしまい、仕方なく「水を思い切り吸い込んでお腹の中に溜めて、思いっきり吐いてみて」とクロムにアドバイスした。


「へぇ、人間って変なことするんだね」


 クロムは深色の言う通りに深呼吸してみる。するとクロムの場合、口からではなく両脇腹に付いたエラがパクパクと開いては閉じてを繰り返していた。姿形は人間ではあるものの、エラ呼吸の器官は以前のシャチであった体からきちんと継承しているらしかった。

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