第20話 夏目アオイの分岐点


人生には時々ナイーブになる時がある。

例えば湿気のこもる雨の日なんかがそうだ。


関節の節々が痛くなり始め、次第に布団から出ることすら億劫になってくる。

ああもうこのまま世界が終わらないかな、もういっそのこと地球が崩壊して永遠に布団に入ったまま小宇宙を彷徨いたい。

そう思っている人間もアオイだけではないだろう。


けれど布団から出て、最悪の天気で気分も乗らなくてもお仕事や学校に行かなければならないのがジャパニーズの宿命だ。


そうして一発殴られた後のような顔で二日酔いの足取りをしながら部屋から出てくると、退職金が貰えなかった中年に重なる背中で実家の廊下を歩いていたアオイを呼び止める声がリビングの方から聞こえてきた。


家に自身を呼び止める存在なんていないはず。


妹は外面だけは良く、朝早くから学校に行く規則正しい健康優良児のため遅くに起きてくるアオイとはすれ違うことすら少ない。

一体誰だと開けたくもない目を開けてそのご尊顔を拝んでみると、


「おひさぁーアオイ、オネイチャンだよ」


随分めんどくさいのが帰ってきていた。



「向こうから帰ってきたってのにカスミは全然構ってくれないしさ」


「鬱陶しがられてんじゃないの?」


つい最近まで海外で仕事をしていたアオイの姉、夏目サラは自宅の開放感による物なのか朝っぱらからビールを片手にダメな大人を体現していた。


「まぁいいか、帰ってきた時に絡めばいいし」


一応海外でベンチャー企業として成功を収めていたはずの人間だったはずだが、今の彼女にはその面影は全くなく、ただのめんどくさい人と化していた。

そしてそのめんどくさい人をある程度適当にあしらい、適当に朝食を食べているアオイにサラはベラベラと身の上を話し始めた。


「とりあえず本題に。里帰りっても私もそう暇じゃないからな、仕事終わらせなきゃならんのよ」


「へぇ、がんば」


返事だけして内容は全く頭に入っていないまま食べ終わった食器を流し台に置くアオイ。

学校もめんどくさいのに家でも絡んでくるめんどくさい者がいて心労で死ぬんじゃないかと思い、心のケアをする必要性を真面目に検討して玄関へと歩いて行こうとするが、


「それで私が帰ってきた理由は──アオイ、お前こっちに来い」



「何を言っているかさっぱり」


「連れないこと言うなよぉ。それにお前は壊滅的で致命的なアホだが馬鹿じゃない、ちゃんと意味は伝わっているはずだぞ。じゃなきゃこんな誤魔化し方はしない」


後ろからの声に振り向くことなく足を止めたアオイはドアノブにかかったままの手を取り下げた。


「私はお前はここにいるべき人間じゃないと思っている」


缶ビールの音が静かな室内に響く中、微動だにしないアオイは聞く気があるのか、それとも単純に動く気がないのか。


彼の考えていることを理解する術はないが、ひとまずは聞いてくれるということで処理したサラはそのまま話を続ける。


「私はお前が欲しい。姉として、社会人をとして。お前の才能と存在はこんなところで、テストの点数なんかで測られて一掃する奴らと違って見出している。考えろ、お前の才能はこんな小さなところで終わるべきものじゃない」


「俺は英語できないし、マジでテストも0点だ」


「学校の英語が役に立った試しはない」


「向こうで俺が生きてけると思ってんのか?」


「飯の世話くらい私がしてやれる。それくらい買ってるんだ」


「弟にする話じゃねぇよ、それ」


「お前はこの社会が求める量産機にはなれない。皆と同じように右を向けるようには作られていない。けれどそれを、上に忠実でない人間をこの社会は排他する。だからお前が潰される前に私が迎え入れる。お前と言う才能を、ここで失うのは私が許さない」


返事はない。


サラのいう皆と同じように、協調性と言う鎖に繋がれて全員で一律共同体のような量産型社会人を生産して消費するのが今の現代社会。

そしてその基準からはみ出た『優秀な人間』は社会不適合者として排他される。


特別であることは、今の世の中には不要である。


そしてその生きにくさをアオイはもう知っている。

ずっと前から、少なくとも千春のいじめの時点で理解しているのだ。


「………………今は無理だ。後でどうにかする」


乱雑にドアノブを捻って廊下へ歩いていったアオイはそのまま玄関へと足を向けて早足で走り出すが、そこにいると思っていなかったカスミの姿が見えてぶつかる寸前で立ち止まった。


「お兄ちゃん……今の」


「気にすんな。酔ってるだけだ」


靴を履き潰して玄関から出て行くアオイの後ろ姿を黙って見つめ、重く締められた扉を前にして何か違和感のような物を感じ取っていたが、あくまで予感だと見ないようにした。


だがそれが仇となった。


次の日、家の中にアオイの姿はなかった。





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