私とタロウの物語。

熊男

私とタロウの物語。

 早く大人になりたい。そう思い始めたのは中学校最初の夏休みのころだった。

 学校は退屈だった。友達は興味のない話ばかりするし、先生は子供が好きなのか嫌いなのか、それすら分からないぐらい無表情で素っ気ない。退屈でいても、馬鹿な男子みたいにアホ面晒して怒られたくないから余計に疲れる。

 家はもっと退屈。何もわからず、感覚を忘れるくらい部屋の中で体を動かさず一日を過ごす。父に呼ばれ、一階に降りては黙って食事をする。父はこの雰囲気をいつも決まってテレビをつけて紛らわそうとするが、今日の番組はよりにもよって『母の日特集』だった。父は素早くテレビを消した。

 そう、私には母親がいない。そして、私にとって大切だったものもこの前失くしてしまった。


 私は長い休暇を田舎のおばあちゃんのところで過ごす。田舎も私にとってそんなに良い所ではないが、私にはそんな思いを吹きとばしてくれる相棒がいた。

 名前はタロウ。私と同じくらいの背のゴールデンレトリーバー。タロウは田舎が好きだった。リードを外すとすぐに広い庭を駆け回って、私もついてまわっては体を動かすことにほとんどの時間を費やした。タロウだけ、タロウだけが私を素直にしてくれた。

 ある朝、おばあちゃんと父は神妙な面持ちで話し合っていた。私は気づいた瞬間、嘘だと思わずにいられなかった。

 タロウは姿を消していた。おばあちゃんの家でリードをつけずにいたのが悪かったようだ。

 信じたくなかった。今までリードは外しても、逃げてどっかに行くなんてことなかったから。そんなこと起こる理由がなかったから。


 それ以来、私はずっと退屈に過ごさずにはいられなかった。いや、退屈に暮らしているフリをするのが私の精一杯の努力だった。

 学校に居るときも家に居るときも友達と話している時も、唐突に泣きたくなる。見せたくない、見せられない。誰かに言ったってタロウは戻ってこない。

 だから私は早く大人になりたい。大人になればきっとこんな思いもせず我慢することができる。切り替えて生活することができる。私はお父さんみたいに我慢できる人間じゃないから、早く大人になりたかったんだ。


 今日も唐突に込み上げてくる。どうしても無理な時はトイレに籠って声をなるべく出さずに耐える。明日も明日で、今日の繰り返し。

 

 家に帰る。父は仕事で帰ってくるのは夜だ。

 分かっているけど、それでも私はこの誰もいない空間にいることが苦痛で怖かった。見えてはいけないものまで見えてしまいそうだ。見えないからこそ、居ないからこそ、心の中で意識はどんどん強くなっていく。だから私は家の一日を部屋で過ごす。誰もいないと知ってはいても、思いたくない。向き合いたくない。そうやって意味のないことで気を紛らわした。


 しばらく経った。

カーテンの外の暗さを見て気が付く。父はまだ帰って来ない。一階に降りても、当然誰もいない。それどころか、誰もいない電気も付いてないリビングに恐ろしさを感じて玄関で靴を履いて外へ逃げた。私はその暗い空間で音を立てる存在が私だけだったことが、異常なほどまでに視線を向けてくるクラスメイトのようで怖かった。

 外は風が強かった。台風並の突風に私の体は右往左往した。「パパ」と呼び掛けても誰も返事をしなかった。

 涙を流しながら走った。飛んでくる葉をものともせず、体の動くままに走り続けた。

 坂を下った最後のところで足を挫いて転倒、思いっきり転んでしまった。立ち上がろうとして顔を上げたその時————。

 目の前にあったのは二つの大きなライトだった。

 その後は私でも予想がついた。


 意識が朦朧とするなかで聞こえたのは、私を抱え上げる男性の声だった。とても懐かしい感じがした。


 タロウがいた。タロウの大好きな田舎で私はタロウの手を握っていた。

 タロウがいるだけなのに、私はその場で泣いた。タロウが私の顔を舐めた。やめてって言っているのにやめなかった。それでも私は嬉しかった。その瞬間なら何でも平気でいられるような気分だった。

 途端に、私の手からタロウの感触が消えた。


 目を覚ますと病院のベッドの上だった。

 父が泣き顔で私のそばにいた。手を繋いでいたのはタロウではなく父の手だった。とても温かい。

 

 幸い、私に命の別状はなかったらしい。

 私が目にしたライトは、父と田舎に行くときに乗る車のそれだった。ぶつかる程度で済んだものだったが、それでも私の体はボロボロだった。

退院した日、私はその車に乗せられて家に向かったが、あの父の泣き顔が忘れられずぼうっとしていた。

 見知った町の風景が、私の目には色彩が薄く見えた。

 

 父がいつものように玄関の扉を開くと、その瞬間、何かが私の体に飛び込んだ。

 タロウだった。元気一杯の、病院のベッドで見た顔そのままの表情でいた。感触がする。手が二個では足りないぐらい私は懸命に触った。病院のベッドの上で雲のように浮いては消えていた「生」の感覚が、体中を巡っては足を伝わり地を這って、迸った。


 父が詳細を話してくれた。

 父の帰りが遅かった日。どうやら父の元におばあちゃんからタロウが見つかってうちにいると連絡があったらしい。父は早くに仕事を切り上げ、おばあちゃんの家に向かったが、向かった時点で相当な時間が経ってしまっていた。娘の心配と早くタロウの顔を見せないといけないという思いから、父はアクセル全開で家に向かった。そして、あと少しというところで車は私の体と————。


 父は話し終わる前にまた泣いた。そして言った。「本当にごめん。父親らしいことも一つもできず負担ばかりかけてしまって」と。

 

 私は父とタロウと、お互いを抱きしめあった。

 リビングのカーテンが揺れ動き、風が入ってくる。

 退屈だった今までの生活に終止符をうつような、新しい風の匂いがした

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私とタロウの物語。 熊男 @zundamochi_clown

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ