第31話 哲学の話

 人間、暇になるとどうでもいいことを考えてしまいます。


『自分って何だろう』


『もしかしたら今自分が現実だと思ってることが夢だったりしないのか』


 もっと細かいやつだと、『信号機が青になったら渡るけど、あれは自分が思っている青と、みんなが思っている青は違うんじゃないか。でも、僕が思っている青が、みんなにとって赤でも、僕はずうっとそれが青だと思って生きてるから、みんなと話してても矛盾が生じない。僕の目から見る赤がみんなにとっての青だけど、その色がどう見えてようと「青」なので、信号は渡れる』んー、何言ってるかわからなくなってきた。

 そんなどうでもいいことを、時間があると考えてしまうのは僕だけじゃないはず。


 自分と他の人みんなとの認識の差があっても、上手い具合にバグが消化されて辻褄が合ってしまうことがあるんじゃないか、と。だからどうした、って話なんですけど。


 むかしの哲学者というのは、もしかしたら最強の暇人だったのではないかと思うわけです。


『テセウスの船』という有名な話がありますよね。あの竹内涼真さんが出てたドラマじゃなくて、その題材になった哲学の話。調べたらプルタルコスという哲学者だそうです。

 テセウス王が所有していた木材の船を、古くなった部品を替えていって、ぜんぶ新しい部品になってしまったら、それは前と同じ物と言えるのか。また古くなった部品を集めて別の船を作った場合、それはテセウスの船なのか。はたしてどちらがテセウスの船なのだろうか、云々。



 どっちでも、よくね。



 多分、修理が必要で直したんでしょうし、どっちこっちテセウス王が所有してんだから、それはもうテセウスの船でしょう。なんなら『テセウスの船Part2』でいいんじゃないですか。

 第一、人間の細胞も数年で新しいものに生まれ変わっているということですから、数年経ってたら人間が変わっちゃうわけじゃないですもんね。

 だから、答えはどっちでもいいです。


 あとは『メアリーの部屋』という話があります。

 これはフランク・ジャクソンという1980年代の哲学者だそうで、結構最近ですよね。

 白黒の部屋の中で生まれ育ったメアリーという女性がいて、彼女はこの部屋から一歩も外に出ないで暮らしていた......ってこの時点でコンプラ引っかかりませんかね。

 それで、このメアリーは生まれてから『色』を見たことがないらしく、本を読んで視覚の神経生理学の専門知識を学んでいた。光の特性、眼球の構造としくみ、人がどういう場面で色を認識するのか知識で全部知っているのです。その彼女が初めて外に出て、色を初めて見たとき何を学ぶのか。

 答えは、常軌を逸している。

 とんでもないことを考えるなぁ、という感想しか出ない。


 じゃあ、もう一つ有名な話。『トロッコ問題』。

 制御できなくなったトロッコが走っていて、行く先には5人の作業員がいる。このままでは5人が猛スピードのトロッコに轢かれ、命を落としてしまう。途中進路を切り替えるレバーがある。でも進路を切り替えると別路線では1人の作業員がいるので、切り替えたことによってこの1人が確実に死んでしまう。そのレバーを引くことができるのはアナタです。さあ、どちらの命が重いのか。

 これは5人を助ける方がいいのか、と断腸の思いで選択する人がいるかもしれませんが、もし別路線の1人が自分の身内や大切な人だったら......。気づかなかったのでレバーを引きませんでした、と責任逃れをするかもしれません。

 じゃあ、答えは。


 こんな事態に遭遇したくありません。ムリです。



 まあ他人が考えたことだから好き勝手に突っ込めるのですが、こうやって例え話とか、こうなった場合だったらアンタどうする、なんて考えちゃうんです。


 音楽好きの友人と話していて、最強のバンドを作るとしたらベーシストが誰で、ギタリストが誰、と話しているようなもんです。そんなの、あり得ない話。



 迷信で『夜爪を切ると親の死に目に会えない』と言われます。これはむかし(江戸時代とか)暗い中で爪を切ると危ないから、という説があります。今は夜でも電気をつければ明るいし、便利な爪切りもあります。


 多分、哲学って、この程度の内容なのではないかな、と解釈しています。低レベルという意味ではなくて、すごく身近なことをすごく考えて、頭のいい人にも悪い人にも皆んなに「こんな考えもあるんだけど」というように感じます。


『テセウスの船』だって、テセウス王のために一生懸命直したらそれは紛れもないテセウスの船だし、嫌々修理してたら「こんなもんもう最初の船と違えよ」なんて言う人も出てくるかもしれない。


『メアリーの部屋』は、知識ばかりでじゃなくて実際に見てみたら何か感じるものがあるんだよ、という解釈もできる。逆に頭デッカチで世の中全て知ったような気になってるけど、知識ばっかりで屁の役にも立たねえじゃねえか、と解釈する人もいるだろう。

 これに関しては、「新しく何かを学んだという答えなら、物理的な情報や知識は、この世界に関する万物を学ぶのに十分ではない、物理主義は間違いである」ということになってしまうらしい。なんか知識、知識ってうるせえな、と思ってしまう。

 この話は、白黒の部屋に閉じ込められているようで、あまり好きになれない。


 じゃあ『トロッコ問題』は?時と場合によると思う。

 5人だからとか人数の問題じゃなく、少ない方でももしそれが自分の家族ならと考えたら、選択の余地はない。

 だけど、今現在問題になっている戦争のこともそうだけど、相手の国の人たちを殺して戦争に勝ったとして、その土地が自国になったところで嬉しいのか。仕掛けられた戦争に対して、自国を守るために戦わなければならないのは正しいことなのか、それは間違っているとも言い切れない。それが自分の国で起こったらなんか考えたくない。


 デカルトの「我思うゆえに我あり」も、意味を調べると「世の中のすべてのものの存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑うことができない」ということだそうです。色んなものを否定しても、自分だけはどうしたって存在している、ということなのだろうか。「自分のことは信じなさい」という意味にもとろうと思えばとれる。


 こうやって哲学のことを考えてると、まったく答えに辿り着かない。答えなんてなくてもいいと思っている。


 前にも書いたが、僕が小説を書いている理由がわからないけど、理由なんてなくたっていい、というようなことを言った。自分でもわからないから仕方ない。

 もしかしたら「家族って大切に思ってるんです」とか「こういうことはしちゃいけないと思ってるんです」とか身近で単純なことを物語にしてみているだけなんだと思う。


 一番最初に、と書いた。忙しかったりすると、そんな暇はないから考えない。だけど、暇があるから考えてしまう。仕事でも暇だと「あの人のこういうところが嫌だ」「あの人のあれは間違ってます」なんか言ってくる奴がいる。これはどこの会社にいても同じパターンだ。忙しい人は他人をどうこう言ってる暇がない。道端で井戸端会議をしている主婦たちはたいていその場にいない奥さんの悪口を言っている。サラリーマンは喫煙室でたいてい上司や会社の悪口を言っている。

 忙しかったら戦争なんて起きないかもしれない。


 かくいう僕も暇になると他人の悪口を言いたくなる。

 悪口を言わない時は、どうでもいいことを考えている。そのどうでもいいことが小説になったりする。


 でも、ここで矛盾が生じる。前に書いたが、「暇だと書けない。時間がない時の方が小説が進む」。おかしいではないか。


 暇がゆえに書けないのか。

 哲学風な言い訳をして、今日も小説の続きが行き詰まっている。


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