夕闇に沈む
家を飛び出したはいいが、俺は財布を忘れて出たことに後から気がついた。ミスった。勢いに任せて行動に出るとこういうことになる。幸いにしてスマホはポケットに突っ込んできていたので、スマホ決済はできる。便利な世の中で助かった。
コンビニでコーヒーを買うと、俺は近所の公園に向かった。何年も前に安全の観点から遊具は撤去されてしまい、木と芝生とベンチくらいしかないので子供の姿はない。犬を連れた人や老夫婦が時折行き交う程度の静かな公園だ。だが俺はこの公園を気に入っていた。一人でぼんやりと物思いに耽るにはこの静けさがちょうどいい。
公園で一番大きな樫の木の近くにあるベンチに腰を下ろし、コーヒーに口をつける。サラサラと木の葉が擦れ合う音を聴きながら目を閉じるとトゲトゲした気分が少し落ち着いた気がした。ここで少し頭を冷やすことにする。さもなくば梨子と顔を合わせた時にまた本気の言い合いになりかねない。
俺が腹を立てるのはおかしいと頭では理解しているものの、感情はどうにもならない。勘違いして求めてきたのは梨子で、それをわかっていながら葛藤しつつも結局応えたのは俺。梨子の気持ちを知ってたのに勝手にほんの少しだけ錯覚して期待して勝手に傷ついたのも俺。
ベンチの背もたれに身を預け天を仰ぐ。
「ホント馬鹿みてぇ」
空は泣きたくなるほど青かった。片腕で目を覆ったまましばらくそのままの体勢でいると寝てしまったのか、気がつけば三時間経っていた。飲みかけだったコーヒーはすっかり冷めてしまっている。冷めたコーヒーを飲み干し、園内に設置されたゴミ箱へと空の紙コップを放り込む。
時間を置いたこともありある程度頭も冷え、心の落ち着きも取り戻せた……ような気がする。とりあえず顔を合わせても尖った態度にはならないだろうと思い、俺はひとまず自宅に戻ることにした。
「ただいま」
「おかえり雅弥」
リビングに顔を出すと両親が紅茶を飲みつつ寛いでいるところだった。さりげなく室内全体を見回してみるが、梨子の姿はない。きっと帰ったのだろう。気まずかったので顔を合わせずに済んで良かったのかもしれない。小さく息を吐き、俺はリビングを後にして階段を上る。
正直梨子とどう接すればいいのかわからない。あっちがキャンキャン吠えてそれを俺が適当にあしらうのが常だが、今回はデリケートな問題なので勝手が違う。俺から謝るのもなんだかな……と悩みつつ階段を登りきり兄貴の部屋の前に差し掛かると話し声が聞こえた。防音とは言えある程度音量があればドアからなら音は漏れる。声の主は梨子だ。帰ってなかったのか。もしかして今までずっと兄貴と二人きりだったのか?胸のあたりが苦しくなる。
「あ、あのね、いつも篤哉くんは優しく私の面倒を見てくれたよね」
切羽詰まったような梨子の声。どうやら俺は最悪のタイミングで帰ってきたらしい。兄貴の声はあまり大きくないので聞き取りづらいが、気合を入れているらしい梨子の声は大きくてそこそこ漏れ聞こえる。
「あのね、私ね、篤哉くんのことがずっと好きだったの」
知っていたけれど、聞きたくなかった言葉が耳に飛び込んできた。まるで死刑宣告だ。俺がどんなに想っても大事に抱いても、この先も梨子は俺を見てくれることはないのだという最後通告とでもいうべきか。
「はは……」
乾いた笑いが漏れる。何故俺は笑ってるのだろう。心情的には泣きそうなのに、涙は出てこない。俺は自室に戻り、パソコンを立ち上げると検索を始めた。
一度知ってしまった甘い感触で心に吹き荒れた嵐は抑えられないから。それでも俺の想いは叶うことがないから。傍にいるとどうしても梨子を求めてしまうから。
画面に表示された物件情報に内見依頼を送る。幸いにして夜勤のバイトをしているおかげでそこそこ貯金もある。物理的に離れてしまおう。梨子が目に入らないようにしよう。電話番号も変えて梨子と連絡が取れないようにしよう。関わりを減らして少しでも早く梨子への想いを断ち切ろう。
善は急げだ。俺はスマホと財布をポケットに突っ込み、携帯電話ショップに向かうべく再び自室を後にした。
「雅弥、また出かけるのか」
リビング前を通ると親父から声をかけられる。
「ちょっとね」
俺が答えると今度は母さんがキッチンから声をかけてきた。
「ええ?またなの? 梨子ちゃんいるのに」
「いつも俺がいなくても好き勝手してくだろ」
「夕飯は?」
「夕方には帰るから食うよ」
母さんの声を背に靴を履き、家を発った。
目的地に着くと、俺はさっさと手続きをすることにした。今の機体を解約して新機種を新規契約したため手続きに長く時間を取られてしまった。全部終わる頃にはすっかり日暮れ時だ。
帰宅の道すがら友人たちにショートメールで番号とメールアドレス変更の知らせを送る。この作業が面倒で携帯を解約するのが嫌なのだが、今回ばかりは仕方がない。コミュニケーションアプリも新規でやり直すので携帯番号を知っている相手にだけはそれを送る。アプリでのやりとりしかしていない面子に関しては大学で直接やりとりするしかない。梨子には当然送らない。そうでないと変更した意味がない。俺の電話帳には梨子の番号が入ったままだ。詳細を表示させれば梨子の携帯データと誕生日が表示される。
「さよなら、梨子」
削除ボタンを押せば、データは消えて無くなった。梨子への気持ちもこんな風に簡単に消えてくれたなら楽なのに。ふ、と自嘲する。
新しくしたスマホをポケットにしまい顔を上げると、燃えるような夕陽が沈んでいくところだった。その光景を眺めながら視界がぼやけてきてしまったのは、きっと夕陽が眩しかったからだろう。
この日、俺はついぞ叶わなかった初恋を心の奥底に沈めた。
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