泡沫の夢と、現実と *
廊下に出るとちょうど梨子がトイレから出てきたところだった。席を立った時よりもずっと足元が覚束ないようで、壁に手をついてやっと立っている状態だった。そしてその身体が急に傾いでいく。俺は慌てて駆け寄ると彼女を抱きとめた。
酒が回りきったのか、真っ赤な顔でぼんやりとして俺の腕の中で暴れることなく大人しくしている。
「いくらやさぐれたからってこんなになるまで飲んで、馬鹿だな……しょうがねえなぁ、本当に」
そう言って梨子の背中をさすってやると、梨子はシクシクと泣き始めた。そして俺にぎゅうっと抱きついてくる。俺の胸元に縋ってしばらく泣き続けた。頭や背中を撫でたりして宥めすかしていると、すんすんと鼻を啜る音がしてくる。そろそろ泣き止む頃合いかと思い身体を離そうとすると、それを阻むようにしがみ付かれた。
「ちょ、梨子。離せって」
梨子を引き剥がそうとしたが、存外力が強かった。
「や」
「や、じゃなくて」
好きな女にひっつかれるのは嬉しいが、キツイ。だってコイツは俺のことを好きじゃない。さっきは緊急事態だったのでやむを得なかったが、程々に落ち着きを取り戻したのならば一刻も早く離れたい。もう、距離を置きたい。
「好き」
「……っ」
潤んだ瞳で見上げられ、動揺する。俺に向けられるはずのない、女の顔。梨子は酔っ払いすぎて俺を認識できないでいる。俺を、兄貴だと思っている。……心がひび割れていくような気がした。
「好き」
「違う」
「好きなの」
「違う、お前が好きなのは」
俺じゃない、そう言おうとしたが、その言葉は梨子の唇によって遮られた。
「…………っ」
梨子の肩を掴み、無理矢理唇を離させる。すると梨子の目から再びはらはらと涙が零れ落ちた。
「すき……ずっと好きだったの……振られるのはわかってる。でも、でもお願い。思い出にするから、宝物にするから、抱いて。お願い……」
梨子が俺の胸にしがみついて頬を寄せる。頭がクラクラした。違う、俺に言われてる訳じゃない。梨子は兄貴に言っているつもりなのだろう。けれどこんなのは錯覚してしまう。好きな女に口付けられて、潤んだ瞳で抱いてほしいと懇願されて、俺に向けられるはずのない女の顔で見つめられれば。
(ああ、無理だ)
触れる体温が、柔らかさが俺の思考を鈍らせる。駄目だと分かっているのに、抗えそうにない。
腕の中で懇願を続ける梨子の顎を、俺は指先で捉えた。
「俺も好きだ」
そう告げてから梨子に口づける。唇を舌先で舐めて、それから上唇、下唇と順番に食んでいく。梨子の手が俺の背に回されてハッとした。
(何やってんだ、俺は……!)
慌てて唇を離すと、梨子はとろんとした顔つきで俺を見上げていた。
また吸い寄せられそうになったが、頭を振って正気を取り戻す。そして当初の予定通り客間に連れて行くべく横抱きにして階段を上った。
客間のドアの前で、梨子を下ろす。
「もう寝ろ。今のお前は正気じゃない」
しかし梨子の腕は離れない。俺の首に回ったままだ。
「梨子」
「いや」
俺が不安定な体勢になっているところに強く抱き着いてくるものだから、俺は梨子の方へと倒れ込んだ。
「っ、」
咄嗟にドアに手をついたものの、所謂壁ドン的な状態になる。梨子を潰さずには済んだが、それでも吐息が触れるほど互いの顔は近い。梨子は俺の顔をじっと見つめている。熱に浮かされた瞳で。もう一度この唇を味わいたい、そんな欲が顔を出しそうになる。だが、もう駄目だ。許されない。ぐ、と梨子を掻き抱きたい気持ちを抑える。
「り」
離れなくてはと思ったときには遅かった。
「いかないで」
再び梨子にキスされた俺は固まってしまった。やっとのことでかき集めた理性がさらさらと少しずつ崩れていくのが分かる。
「梨子、俺は」
「抱いて」
梨子が着ていたトップスと共にブラジャーもたくし上げ、白くふっくらとした胸を曝け出す。
「馬鹿、お前ここ廊下……っ」
「じゃあ部屋に連れてって」
その目は決意に満ちていた。意地でも抱かれたいらしい。……だが、その相手は俺じゃない。
「……胸しまってとっとと客間で寝ろ、酔っぱらい」
「酔ってないもん。好きなんだもん」
またぽろぽろと泣き出した。俺は深い溜息を吐く。俺を兄貴だと思い込んでいる時点でどう考えても酔っている。俺と兄貴は似ていない。それなのに間違えて誘惑してくる、俺の気も知らないで。理性が焼ききれそうだ。今すぐ乳をしまえ。
「あー、クソ。そんなこと言ってるとホントに抱くぞ」
客間のドアについていた片手を離して自分の顔を覆う。物理的に視界を遮った。しかしその手を梨子に掴まれてしまう。梨子は俺の手を自分の胸に触れさせた。
ーーーーブツン。
頭の中で理性が焼き切れる音がした……そんな気がした。
俺は梨子を抱き上げると自室に入り、ベッドの上へと下ろす。梨子に覆い被さると、二人の視線が真近で視線が交わった。
「本当にいいのか」
既に二度は吹っ飛んだ理性をどうにかかき集め直して問う。
「うん」
梨子の答えは変わらない。
「本当に?」
俺は念を押した。ここで止めてくれなければ、もう止められない。
「うん……して……」
やはり答えは変わらない。その言葉を合図に俺は梨子に噛み付くようなキスをする。身体を隅々まで余すことなく愛撫して、丁寧に丁寧に大事に抱いた。できるだけ痛くないように、ゆっくりと時間をかけて快感を感じられるように。反応を見ながら声をかけて、大丈夫そうなら次の段階へ進んでいく。焦れた梨子が酷くしてもいいからと言ったが、俺はそれを許さなかった。俺との行為を苦痛なものにしたくなかった。
快感を拾い出しだした梨子が短く甲高い声を上げ始め、ようやく俺は動きを性急にする。快感に喘ぐ梨子は扇情的で淫靡で。もう我慢などできるはずもなかった。
「梨子……梨子……」
「ゃ、あ、んぁっ、ぁっ、あん」
ギシギシとベッドが揺れる。だが下に聞こえることはない。家は防音にこだわって造られている。兄貴も父さんも母さんも朝まで飲んでいるだろうから二階に上がってくることもないだろう。
何度も名を呼び梨子の中へ欲望を打ち付ける。俺を見て、俺の名前を呼んで欲しい。梨子の瞳には今たしかに俺が映っている。
「愛してる、梨子」
俺が言えば梨子は微笑んで、
「私も」
なんて答えるから。甘えて擦り寄ってくるから。やはり錯覚してしまうのだ、本当は俺のことを好きでいてくれてるんじゃないかってーーーーー名前を呼ばれなくても。
何度目かの絶頂を迎えたあと、俺たちは抱き合って眠りについた。
そして、朝。
寝ている俺の隣でゴソゴソモゾモゾ動く気配がして、薄っすらと意識が浮上する。覚醒しきらないまま腕を伸ばした。
「起きたのか……?」
ほっそりとした温かいものに手が触れる。俺はそれを掴むと、本体を腕の中に引き寄せた。梨子の匂いがする。梨子と寝た記憶はある。だが俺の脳は靄がかかったままだ。
枕元を探り、スマホを手に取る。時間を確認するがまだ起きるには早い時間だ。俺は用済みになったスマホを投げ捨てた。
眠い。再び俺の意識が遠のいていく。梨子に呼ばれ、何とか意識を保とうとしたが無理だった。何とかうんとだけ返事ができたものの、何も考えられない。うつらうつらとしていると梨子が叫んだ。
「うるさ……」
大声が頭に響く。薄っすら目を開ければ、梨子が困惑しつつもまだ何か喚いていた。俺も眠たいし時間も早い。防音構造とはいえ、完全に消音になるわけではない。もし兄貴が上に上がってきていたら起きてくるかもしれない。頭が働かないながらもその考えに至った俺は梨子の頭をホールドした。
「シー……しずかに」
「わぶっ」
しかし黙らせることができたのはほんの一瞬で、梨子は直ぐにジタバタと暴れ出す。とにかく一刻も早く睡眠に戻りたい俺は次の手を打った。俺はキスで無理矢理梨子の口を塞ぐ。抵抗はさせなかった。梨子が息も絶え絶えになったところで解放する。二人を繋いだ銀糸を舌で舐め切ると、梨子は無言でぼんやりとその様を見つめていた。騒ぐ気力を無くしたらしい。ようやく静かになった。
「ん、いいこ」
頭を撫でてやる。梨子は顔を真っ赤にしながら黙ってされるがままになっていた。かわいい。かわいい梨子も見れたし静かになったし、一石二鳥。満足した俺は梨子を抱き込むと、眠りの世界へ旅立った。
しばらく時間が経って、再び腕の中でゴソゴソ動く気配がした。瞼は重いが無理矢理目を開け様子を伺う。目前には梨子の顔があった。
「…………」
じっと見つめる。何故梨子がここにいるのかが思い出せない。
「…………?」
俺は首を傾げた。まあ、あとで考えればいいかと思い目を閉じる。すると額を強烈な痛みが襲った。
「いでっ……なにすんだ……」
目がチカチカする。頭突きの威力は強大だった。まあ、おかげで目は覚めたのだが。昨夜梨子と俺は……。
俺が昨夜の出来事に思いを馳せていると、潰された猫のような声がした。俺と距離を取ろうとして勢い余ったのか、梨子はベッドの下に落ちた……全裸で。
「何やってんだ、お前は……」
俺は生まれたままの姿で転がる梨子を引き上げるべく手を伸ばす。俺に文句をつける梨子は、今の自分の姿がどうなっているのかを忘れているようだ。俺から無言で身体をじっと見つめられたことでようやく気づいたらしく、漫画に出てくるヒロインのような台詞を言いながら梨子は手で胸と下を隠した。
ほぼ隠せていないことをツッコんでから引き上げてやり、布団の中へと引きずり込む。いくらか押し問答をしてから梨子が俺を睨んできた。ああ、これがいつもの俺に対する態度だったなと少し落ち込む。
「なんでここに雅弥がいるの」
「俺の部屋だから」
梨子の言いたいことなど分かっている。だが、俺はとぼけた答えを返した。
「そうじゃなくて!!」
「じゃあ何だよ」
「篤哉くんだったのに!」
「は?」
何を言いたいかは分かっていた。だがそれを実際に言われてしまうとやはり腹立たしくて、悲しい。
「篤哉くんが介抱してくれてたのに、なんで雅弥に変わってるの……」
梨子の目に涙が浮かぶ。そんな梨子に俺は事実を突き付けた。
「介抱したのは最初から俺」
「え?」
梨子が百面相を始めた。俺はその様を眺めながら、更に告げる。
「泣きながら抱いてってしがみついてきたから抱いた。それだけ」
これも事実だ。いろいろなやりとりを端折って言えば、そういう事になる。
「はぁぁああ!?」
俺の言い方にカチンと来たのか、梨子が罵倒してくる。俺も言い返してしまったので舌戦になった。その中で梨子が放った俺のことなんか好きなわけがない的主旨の言葉に心が抉られる。そして俺と一夜を過ごしたのは全部俺のせいだと宣われた。
確かに俺が誘惑に負けたからというのもある。だから俺が悪いと思う気持ちは当然ある。けれど、全てと言われると思うところがあるわけで。
(そもそも飲めない酒でやけ酒して泥酔した挙げ句俺に迫ってきたのはお前だろうが!!)
俺はギリギリまで我慢した。相当我慢した。それなのにグイグイ押してきたのは梨子なわけで。
「……あー、そうかよ」
無性に腹が立った俺は捨て台詞を吐いてから、梨子を放置して自室を出る。一階に降りると母さんが朝食の準備をしていた。
「雅弥、起きたの。おはよう」
「……おはよ、母さん」
幼馴染と激しく抱き合った後に親と顔を合わせることの気まずさが半端ない。一瞬言葉に詰まる。大丈夫だとは思うが、昨夜俺たちが二階に上がった後のことに探りを入れてみる。
母さん曰く、自分は早めに寝たが、父さんと兄貴は少し前まで飲み続けていたようだ。これから二人ともようやく寝るらしい。父さんは既に寝室で寝ており、兄貴は今は風呂と。ふーん、と気の無い返事を返す。
「ねえ、雅弥。梨子ちゃんは起きたかしら。朝ごはん食べて行ってくれるかしら」
「……知らね」
「篤哉は起きてからごはん食べるって言ってるから、朝ごはんは私たち三人だけで食べよっか」
母さんに言われ、顔が強張る。俺は……今は梨子と顔を合わせたくない。
「いや、俺はいい。顔洗ったらちょっと出てくる」
俺は洗面所に向かった。風呂からシャワーの音が聞こえる。兄貴だ。兄貴が出てくる前に終わらせなければ。兄貴とも顔を合わせたくない。
俺は手早く歯を磨いて、顔を洗う。顔を上げると鏡に映った自分の姿が目に入った。
「ハハ……酷ェ顔」
思わず笑ってしまいたくなるほどの情けない顔だった。引き出しからタオルを出し、己の顔を拭う。タオルを洗濯機に放り込んで脱衣所を出ると、逃げるように家を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます