決意

 兄貴は大学を卒業しても地元に戻って来ないことになった。余程あちらの水に馴染んだのか、それとも別の理由か。

 兄貴が戻ってこないことを梨子は嘆いた。兄貴はごくたまに里帰りをしていたけれど、間が悪い梨子はいつも兄貴に会えない。兄貴が帰省してくるとき、梨子は予定があって家にいなかった。

 兄貴が帰ってきていた事実を事後報告すると何で早く教えてくれなかったのかと嘆かれた。その文句は兄貴に言って欲しい。予告なくフラッと帰ってきてはまたフラッと去っていくのは兄貴だ、俺のせいじゃない。心の中で不貞腐れつつも俺は梨子をどうにか宥める。

 兄貴じゃなく、俺のことで感情を揺らしてくれればいいのにーーーーそんな願いを隠して。

 会えない日々のストレスからか、梨子は兄貴のいる大学に行くと言い出した。学力が圧倒的に足りないので無理だと悟ればその大学がある県内で行ける大学を探すと言った。

 しかし兄貴以外の目的がない受験を早乙女夫妻は許さなかった。当たり前である。加えて梨子に一人暮らしをさせるのが危ないと理由もある。おばさん曰く梨子には危機管理能力が恐ろしいまでにないので、一人で何かをさせるのが危ないのだとか。

 もし県外に行くなら俺も当然ついて行くつもりだが、そのことは口に出さなかった。それを言ってしまえば『兄貴以外の受験目的』さえ梨子が見繕うことができたら、おばさんは簡単に県外行きを許可してしまうかもしれないからだ。おばさんからの俺への信頼度が半端ない。

 結果的に梨子は多少興味のある学部のある地元大学を受験した。俺も同じ大学だ。


『何でアンタまでこの大学なのよ? アンタの学力なら篤哉くんのところにだって行けたのに。羨ましい』

『こっちの方が近いし楽だろ。行きたい学部もあったしな』


 うちの大学に就きたい職業に特化した学部があってよかったと思う。

 大学に入ってからは互いに交友関係も変わって、一緒にいる時間はまた少し減った。梨子がうちに結構遊びに来るので、本当に少しだ。よく口喧嘩になる割には相談事を持って来ては寛いで帰っていく。吹っ切りたいのに頼られると嬉しくて世話を焼いてしまう。兄貴を持ち出されては傷つきの繰り返しだけれど、兄貴の話題が出ない間だけは好きな女との楽しい時間だ。梨子が無防備で油断した姿を曝け出すのは俺にだけ。気の抜けた顔や拗ねた顔が見ることができるのも家族を除く男の中では俺にだけ許された特権。その中に”恋する女の顔”を向けられることが含まれたなら、どんなにいいだろう。けれどそれだけは兄貴のものだった。そのはず、だったのに。

 唐突に兄貴が帰省することになり、今回は珍しく梨子もタイミングが合った。合ってしまった。家に来るなり梨子はまず兄貴を探す。


「こんばんはー! 篤哉くん帰った? いる? ねえってば!」


 俺の顔を見ながら兄貴のことばかり言うものだから、俺の眉間には自然と皺が寄ってしまうのは仕方のないことだった。それを目にした梨子は大層不満そうだったけれど、兄貴が顔を出せばあっという間に機嫌が直った。兄貴から歯の浮きそうなありきたりなセリフを言われただけで頬を染めながらくねくねする梨子に俺の機嫌は急降下する。はしゃぐ梨子と笑顔で話す兄貴を置いて俺は自室に戻った。久々に兄貴に向けて女の顔をする梨子を目の当たりにするのはキツい。心臓が潰れそうに苦しい。

 長い間ずっと梨子の傍にいたのは俺だし、僅かでも自分に心を寄せてくれる可能性はどうしても抱いてしまう。懲りずに何度でも『いつか』を期待して、やはり木っ端微塵に砕け散ることを繰り返して。ドMにも程がある。とは言え、もう俺の心も限界を迎えようとしていた。家を出て一人暮らしをして、携帯番号も変えて梨子とは一切連絡を取らないようにしようーーーーそう心に決める。夕飯の支度ができるまでの間、俺は外部の音が聞こえないようにヘッドホンを着けると大音量で音楽を流しながら賃貸情報を検索した。


「あ、そうだ。俺、結婚するから。子供ができたんだ。次の休みに相手を連れてくるから」


 夕食の時間になり家族プラス梨子で食卓を囲む中、兄貴が唐突に落とした爆弾発言。父さんはビールを噴き、母さんは煮物を持った皿を落として煮物は無残に床に散らばった。俺は目を見開く程度だった。こうなると梨子の様子が心配だ。俺はそれまで見ないようにしていた梨子の様子を伺う。梨子は少しの間固まって『そっか』とだけ呟くと、それから急に口数が少なくなった。

 夕食が終わり、酒盛りをするべくリビングへと移動した。母さんが酒の肴を用意して俺がそれをリビングに運ぶ。酒の用意は兄貴と父さんの仕事だ。準備が終われば俺も母さんも酒の席に着く。

 梨子は飲みになると帰ってしまうのだが、今日は違った。思いつめたような顔で『今日は私も飲みたい』と参加を申し出てきたのだ。父さんは梨子と飲めるのが嬉しいらしく大喜びだ。だが、梨子は酒があまり強くないことを俺は知っていた。サークルの飲み会に参加して初めて酒を飲んだ時、もう二度と飲むもんかと言っていた。それなのに今回は飲むと言う。どう考えてもヤケ酒としか思えない。やさぐれた気持ちになると飲みたくなるのは分かるが。


「おい、梨子。あんま無茶すんなよ」


 心配になって声をかけたが、梨子からの返事はなかった。言う事を聞く気はないらしい。とりあえず俺は母さんに客間の用意を頼んでおくことにした。

 飲み会が始まり、父さんが兄貴に結婚相手との話を根掘り葉掘り聞いていく。兄貴は馴れ初めや、彼女がどんな人間かを語る。実は両親もでき婚だった事実を聞かされたりもしつつ、俺はずっと黙って酒を飲み続ける梨子の様子を見守っていた。目が潤んでいるのは酔っ払ってきたからか、それとも。


「梨……」

「トイレ行ってくる」


 呼びかけようとすると、梨子は立ち上がりヨタヨタとトイレに向かって歩いていく。父さんと兄貴が心配そうにつき添おうとしたが、それを止める。俺は母さんに梨子を客間に連れて行くことを告げ、一階のトイレへと向かった。

 

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