思い出すとて、なじるとて
机の上で冬の眩しい日を浴び、目を覚ましたコウロゼンが絶望したのは言うまでもない。慌てて時計を見ると、既に昼に刻々と近づいているではないか。昨夜、自分が半分眠りながら書きとめた下書きを解読しながら、必死に巻紙に写すと、大慌てで着替えギンススタケの部屋へ向かった。階段を駆け下りながら、踊り場の鏡で自分の姿を映すと、なんともひどい。目の下には日に焼けた褐色の肌でもわかるほどの隈、深い橙色の髪は乱れている。こんな身なりではクジャクアオに何を言われるかわからない。厠により、水で髪を撫でつけていると、時計が目に入った。コウロゼンは時間をだいぶ勘違いしていたようだった。大慌てでここまで来たが、昼の刻までまだ時間がある。部屋に戻って、もっと洗練された戦略を練ろうかとも思ったが、やめた。実は、今朝書き上げた草案に、彼はかなり自信があったのだ。時間に余裕があることを知り、上機嫌で厠を出ると中庭に向かった。中庭は、屋敷の中でもコウロゼンのお気に入りの場所の一つだった。大きな外庭に比べ規模は小さく、手入れもあまり行き届いていないが、自由にのびのびと成長する植物たちを眺めるのがコウロゼンは好きだった。幼い頃は、乳母とクジャクアオとよく植物を見たものだった。今では考えられないことだが、乳母に連れられて姉弟そろって中庭を訪れることは珍しくなかった。クジャクアオは幼いながらも博識で、コウロゼンに虫や植物の名前を教えてくれた。だが毎回こう言うのだ。
「我らが、虫や植物の知識を知っていようがこの国の命運には関係のないことだ。そんなのは専門家に任せておけばよいのだ。」
と。コウロゼンはいつもそれを疑問に思っていたが、ある時口にした。
「ではなぜ、お姉さまは知っているのですか?僕にはとても覚えられません。」
そう言うと、クジャクアオは乳母に聞こえないようにささやいた。
「教育係がうるさいのだ。」
それを聞いて、コウロゼンは笑った。クジャクアオの教育係のいかめしい顔が浮かんだからだ。これが、姉と共に笑った最後の記憶である。初等教育に入る前の出来事だったはずだ。コウロゼンは、切り株に座り、中庭の中央にある小さな池の水面を見つめて考えた。いつからこのような関係になったのだろう、と。なにか大きな出来事があったわけではない。ただ二人とも、年を重ねるにつれ、お互いのどちらもが政権を持つ可能性があることに気付き、意識し、そりが合わなくなって距離を置いただけだ。二人は性格も真反対だったし、考え方もまるで違った。そんな二人がお互いをライバル視してしまったことが、分断を生んだ一因だったのであろう。
ここでコウロゼンは考えるのをやめ、懐中時計を見た。いつの間にかかなり時間がたっている。切り株から腰をあげ、父の部屋へつながる回廊へ向かった。体が冷えてしまった。遠くの曲がり角に、紺碧色の長髪が一瞬見えた気がした。クジャクアオが一足先に着いたようだ。コウロゼンは懐の巻紙を握りしめると、一歩一歩踏みしめるように、部屋の戸に向かった。戸をたたき、中へ入る。毎回入室するたびに、ギンススタケの収集した万年筆の展示が増えているのに気づく。大きなギンススタケの書斎の壁の一角は、万年筆の展示で埋まっているのだ。中には、値打ちのありそうな、非常にきらびやかなものもあった。書斎の奥にふすまがあり、その向こうにギンススタケの寝室があった。一国の主ともあって、警備は万全だ。コウロゼンはこの書斎が少し苦手だった。父のことは好きだったが、ここに来るのは今のように戦略の草案の提出など緊張する場面であったり、叱責を受けることが多いからだ。
「さて」
ギンススタケが口を開き、二人は背筋を伸ばした。
「半年後の遠征だが、私としてはそろそろ決断の時期だと考えている。」
コウロゼンが問う。
「政権のことでしょうか?」
「そうだ、二、三日で決められるものではない。そう簡単な問題ではないのだ。」
ギンススタケが話すのをやめると、沈黙の音が痛いほど耳に刺さった。
「今日は、二人に戦略の件で来てもらったが、その前に私の話をさせてくれ。」
コウロゼンは、はいと返事をし、クジャクアオもうなずいた。
「私は、お前たち二人のように、政権を兄弟間で争ったことはない。知っての通り、べニヒ兄上は嫌気がさして、自分から辞退した。そして、実は私には、もう一人兄がいたのだ。本当なら私は三男だ。」
初めて聞く事実だった。
「コガレコウという、私と似た色の髪の兄だったが、どうしようもなく勉強ができなかった。だが、動物が好きでな。隣の大陸で、動物大虐殺があったのは、二人とも歴史で学んだだろう。その時、私は12歳、コガレコウ兄上は14歳だった。あの事件に激怒した彼は、周囲の反対を押し切って、自分の仕えを連れて、あの国へ行ってしまったのだ。それもたった3人の仕えだ。」
ギンススタケは苦しそうに、眉を寄せてうつむいた。
「止めようと思えば止められたのだ。しかし、両親とも、兄上をお荷物扱いして行かせてしまった。あの時、引きずられてでも彼を止めなかったのは、私の一生の悔やみだ。事件のあった国は、今もだが、絶対王政だった。国王にたてつき無礼な態度をとった兄上は、ある日を境に消息を絶った。殺されたのだ。」
怒りと悲しみで拳を震わせる父を目の当たりにし、コウロゼンは絶句した。まさかそんなことがあったなど、微塵も聞いたことがなかった。思わず、クジャクアオの方を見たが、彼女は冷静に話の続きを待っているだけだった。そんな彼女にいら立ちを覚えると同時に、いつのまにか自分が、平均よりもかなり背の高い姉を、だいぶ追い抜いていることに気付いた。会う機会がそもそも少なく、ここまで近い距離にいることはしばらくなかったので今まで気づかなかったのだろう。
「父上、質問があります。」
ふいにクジャクアオが問いをぶつけた。
「家系図の巻物には、コガレコウという名前はありませぬ。存在すら抹消されたとおっしゃるのですか?」
彼女の言い方は、まるでギンススタケの話が嘘であると疑っているような口ぶりだった。
「そうだ、その通りなのだ。一国の皇子の命を奪ったとなれば、大きな問題になる。だが多額の賠償金と口外しないという条件付きで、『和解』したのだ。」
悔しそうに口を歪めるギンススタケに、クジャクアオはさらに問うた。
「国民にはなんと説明を?」
「事故死ということになっているが、そうでないことを気づいているものは多い。しかし、年々タブー視され、このことを知っている者は今では少ない。知っている、というより覚えている者の方が正確かもしれぬが。」
コウロゼンはあまりの衝撃にしばらくものを考えることができなかった。
「今日まで二人に黙っていたのは、この家に生まれて、そんな運命をたどってしまったものがいることが、お前たちを怖がらせてしまうのではないかと思っていたからだ。だが、ふたりとももうすぐに大人だ。クジャクアオはあと2年、コウロゼンはあと4年で、成人の19歳だ。」
そういわれてコウロゼンははっとした。もうすぐ大人。コガレコウ伯父のように命を奪われる可能性は少なからずある。国を治めていくというのは、そのような危険と常に隣りあわせなのだ。父はそういうことも伝えたかったのだろう。
「さあ、暗い話はここまでだ。」
ぽん、とギンススタケが手をたたく。クジャクアオが巻紙を、白い羽織の懐から出した。ギンススタケの文机に、紐を解いたそれを広げると、説明を始めた。まだ草案だったが、コウロゼンが思いつかなかったような戦法がいくつも使われた戦略で、クジャクアオが説明をしている間、悔しさで奥歯をかみしめた。だがコウロゼンも自分自身の巻紙の中身を思い、自分を奮い立たせた。
「よし、アオはいつも通りよくできているな。これなら勝てるだろう、ただ」
ギンススタケが巻紙の一か所を指さす。
「ここまで多くの民が、自分たちの家畜を戦に出すのに、賛同するだろうか。」
それを聞いて、コウロゼンは勝った、と内心飛び上がった。彼の戦略は、動物を一切使わず、武器戦法を中心に練られたものなのだ。クジャクアオは、それに対する回答を淡々としていたが、コガレコウ叔父の話の直後ということもあり、ギンススタケの顔は終始晴れなかった。コウロゼンの番になると、彼は嬉々として巻紙を取り出した。早速文机に広げると、朝慌てて書いた痕跡が、ところどころの墨の滲みに残っていた。それを見たギンススタケは苦笑しながら、コウロゼンの戦略の説明を待った。
「私の戦法は、武器戦法です。」
動物を使わないことを前面に押し出し、説明を終えると、ギンススタケはふむ、といったきり黙り込んでしまった。コウロゼンは出来が悪かったのかとはらはらしたが、実に良いという一言を聞いて心底ほっとした。
「クジャクアオ、どう思う?」
唐突に意見を求められたクジャクアオだったが、いつも通りの答えだった。
「単純で、一辺倒な考え。敵に手の内を見せているかのような、ありきたりなやり方です。こんな簡単な武器戦法など、『基礎戦法A』の書を丸写ししたかのようです。」
『基礎戦法A』は、初等教育で国防基礎を習い始めたときに一番初めに使う教科書だ。そう、初等教育である。今年高等教育に入ったコウロゼンは大層腹が立った。言い返してやろうという気持ちがいつもより膨らんだ。
「クジャクアオ殿の家畜の徴収など、民が反発することくらい『政策基礎1』の、私財と戦の相関関係の単元に載っているではありませんか」
「そういうそなたの投石器など、初等一年の図工の防具の単元で一番初めに作るものであろう」
半笑いで返され、ますます腹が立ったが、ギンススタケは仲裁に入った。
「二人とも、学校教育に熱心なのは結構だが、どの授業、教科書に載っているかなど、大した問題ではないぞ。大切なのは、それをどのように捉え、活用していくかだ。」
姉弟は、静かになり、父の言葉に耳を傾けた。
「二人とも上出来だ。一か月ほどこちらで考える。来月の同じ日、同じ時間にまた来るように。」
解散した二人は部屋から出た。苛立っていたコウロゼンは、妹のベニキキョウの部屋を訪れようと思っていたが、なんとクジャクアオも同じ方向に歩いていくではないか。違う目的地であってくれと、前を歩く姉の背中に祈ったが、ベニキキョウの部屋の前で立ち止まってしまった。こちらを振り向くと、意地の悪い顔で口を開く。
「私の背後をとって、暗殺か?」
「そんなわけなかろう。」
ぶっきらぼうに言うと、近くの近衛兵に声をかけた。
「ベニキキョウは今、中におるか?」
近衛兵は大層驚いた顔をして答えた。
「お二人お揃いで、珍しい。嗚呼、珍しい。一体どうして、いえ、勿論中にいらっしゃいますよ、ベニキキョウ様は。起きていらっしゃると思います。嗚呼、驚いた。」
重厚な扉が押し開けられ、入室するとベニキキョウが侍女たちと遊んでいるところだった。めったに揃わない姉弟を見て、侍女らもベニキキョウも豆鉄砲をくらった鳩のような表情になった。
「こ、こんにちは、お揃いで‥珍しい‥」
ベニキキョウが大きな瞳で、二人を見つめている。
「お姉さま、お兄さま、どうなさったの?」
「いや、ベニの様子を見に来ただけだ。」
幼い妹の、母親の薄紫色の髪に赤みを足したような桃色の髪をなでると、コウロゼンはすぐに出ていこうとした。ベニキキョウのことは愛おしく思っているが、クジャクアオと同じ空間に長くいるのは苦痛だった。
「ベニ」
背後でクジャクアオが話しかける声がした。何を話すのか気になったコウロゼンは、歩く速度を落とし、声を聴こうとした。
「そなたにあげるものがあって今日は来たのだ。」
コウロゼンは驚いた。あのクジャクアオが妹に贈り物とは。思わず振り返った。
「本当?お姉さま、ありがとう!」
侍女が、ありがとうございますですよ、と訂正するも、かまわぬとそっけなくクジャクアオは言い、懐からうすら桃色の透き通った小球を取り出した。
「これは、占い玉だ。」
そう言って、妹の小さな手のひらに小球を乗せる。ベニキキョウはその小球と同じくらいきらきらと輝いた目で、それを見つめている。
「綺麗!」
「迷うことがあったら、念じながらそれを振って日の光にあててみよ。」
そういわれるが早く、念じる、の意味がわからなかったのか、思わず口から出てしまったのか
「今夜は、果物が食べられるかしら!」
と半ば叫びながら、占い玉を振って日の光にあてた。
「お姉さま、これはなんと書いてあるの?」
ベニキキョウが身を乗り出して聞いている。侍女はもう、彼女の言葉遣いを訂正する気は失せたようだ。
「ベニは今年でいくつなのだ?」
妹の質問を無視して、唐突にクジャクアオが尋ねた。
「5つ‥」
戸惑いながらベニキキョウが答えると、
「私もあそこに情けなく突っ立っているそなたの兄も、5歳になる頃には、大抵の字は読めていたが。」
と言った。コウロゼンは、そんな言い方はないだろうと言おうとしたがそれより前に、ベニキキョウが、再度占い玉の中の文字の意味を聞いたので、諦めた。クジャクアオが、
「これは、『そなたより大きな力にそれは託された』と書いてある。」
と答えると、
「すごい!占い玉さんは何でも教えてくれるのね!」
と喜んだ。無邪気に喜ぶ姿にコウロゼンも頬を緩めた。
「私は、占いの類は、基本的に信じないが、幼いそなたなら喜ぶかと思ったのだ。自分で決められないことに直面したら、そのようなものに頼るのも一手であろう。」
そういうとクジャクアオはすぐに部屋から出て行った。幼い妹相手への言葉にコウロゼンが呆気にとられていると、侍女たちが雪が降り始めたと騒ぎ始めた。どうりで今日は、寒いと思ったのだ。自分の部屋に向かいながら、屋敷中で暖炉にくべる薪の匂いを嗅ぐ。もう年末か、と思いながら冷たい戸のノブを握った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます