なつのおわりに。

 晩夏。

 夏休みが終わり、蝉の鳴き声は止まず、まだまだ暑い、そんな季節。

 蒸し暑さの名残を抱いた風が、緩やかにふくらはぎの横を通り抜けた。

 新学期。

 学校生活の中で最も長い就業期間、二学期が始まる。

 その始業式に、彼女の姿はなかった。

 放課後僕は担任教師に、代々さんは体調不良なのかと尋ねた。連絡しても繋がらないのでその点は不明だ、と返事を貰う。

 何があったのだろう。

 何かあったのかもしれないし、何もなかったのかもしれない。

 担任が独り言のように漏らした言葉を、僕は耳の端で拾った。

「代々が休むなんて、これが初めてだ…」

 職員室を出て、独りで図書室に向かう。

 放課後の日本語講座は、でも今日はお休みになる。相手がいないのだから、当然。

 重たい扉を開けて、目的もなく本棚の隙間を歩く。

 夏休みも、図書室の開館日に合わせて日本語講座を行った。

 代々さんは、いくつの単語を日本語訳できるようになったのだろう。数えていればよかったかなぁ。

 あれ。

 僕は何を考えているんだ。

 これじゃあ、代々さんがもういなくなってしまったみたいじゃないか。

 始業式を休んだだけ。たったそれだけだけれど。

 彼女はもうここにはいないという予感を抱くには、十分すぎる材料だった。

 思えば元々、不安定な存在だった。

 いつ見てもそこにいるし、いつ見てもそこにはいない。

 すぐ近くにいるのに、どうしようもなく遠い気がする。彼女はそんな存在だった。

 いくら心が通じ合っても、ずっと近くに居続けることはできない。そんな直感があった。

 自販機の使い方を尋ねられた時から、感じていたことだった。

 うちゅうじん。

 うちゅうじん。

 うちゅうじん。

 って、なんだろう。

 でも、そうだな。彼女は──代々さんはやっぱりうちゅうじんだったのかもしれない。いや、そうなんだ。

 いつもにこにこしていて、特別に笑うときはにへへぇと破顔する。

 あらゆる物事を観察して、この地球で起こる森羅万象を「きれい」という言葉で表現してしまいそうな。

 素直で。

 自由で。

 純粋で。

 突飛で。

 まっすぐ。

 僕は。

 僕は彼女にとって、どんな存在だったのだろう。嫌われては、いなかったと思うのだけれど。

 日本語講座をする際によく使っていた席に独り。ふと、窓の外を見た。

 いた。

 視界の端に、姿を捉えた。

 高い位置で結わえたツインテイルが、すっと視界から消え去る。

 行かなきゃ。

 逢いに、行かなきゃ。

 そう思ったらもう、脚は動き出していた。何でいるの?という疑問さえもすっ飛ばして。

 生徒はおろか司書の先生さえも不在の室内を、僕はめちゃくちゃに走った。

 扉に衝突しそうになって、咄嗟に手でノブを押し開けて、続いていく廊下を、ただ目的地に向かって。

 彼女はきっといる。

 あそこで僕を待っている。

 不思議なことに、校内で誰かとすれ違うことはなかった。生徒も、教師も。

 すごいな。君は。こんなこともできてしまうのか。

 うちゅうじん、なんだね。やっぱり。

 廊下が僕の足に蹴られて音を立てる。自分の息遣いと心音が、嫌になるくらいうるさい。

 もっと疾く走れたら良かったな。そしたら、もっとずっと速く君のところに行けるのに。

 手すりを頼りにして、階段を飛び降りる。着地に失敗して足を捻った。

 その痛みもわからないくらいに、僕は君に逢いたい。

 逢いに行くんだ。

 生徒玄関を、上履きのまま飛び出して。

 走って。

 ナガミヒナゲシが咲くところ。

「としまー!」

 にへへぇ、と。

 最上級の笑顔で、彼女は僕を呼んだ。

 あのときのように。

 肩で息をしながら、僕も笑顔を返す。何で、こんなに自然に笑えるのだろう。

 きっとこれも、彼女の力なんだ。

 今になって痛みだした足首を庇うように歩き、僕は彼女の正面に立った。

 何かを言おうとして口を開いた彼女を、抱きしめた。

 お願いだから、何も言わないで。

 さようならは聞きたくない。

 代々さんは何も言わなかった。僕は何も言えなかった。

 僕が何かを言ったら、彼女は別れを口にしてしまう気がした。

 途方もなく長いような、途轍もなく短いような、不思議な時間が経過した。

 としま、と小さい声で呟いて。

 代々さんは一歩身を引いて、僕を正面から見詰めて。

「ありがとう。うれしい」

 何に対してか分からないけれど、そう言った。

 そして、次の言葉を紡ぎ出す。

「にほんご、わたしちょっとうまくなった。けど、いっぱいわからないのもある。ごめん。だけどてがみ、にほんごにしたから。がんばったから」

 代々さんは、一通の封筒を差し出した。

 僕はそれを受け取る。ありがとう、と言ったつもりだけれど、上手く発音できていたかわからない。

「きょうは、がっこうのかだいをだしにいってた」

 遠く空を見上げて、彼女は言った。

 僕も真似をして、空を見上げる。何の変哲もない青空に、雲が点々と浮かんでいる。

「あしたから、がっこうがはじまる。ちきゅうのちょうさは、おわりにしないとだめ。だからね、としま──」

 またね、と彼女は口を動かした。声は出していないようだ。

 僕もまたね、と口をぱくぱく動かす。

 それを見た代々さんはにへへぇと破顔して、次の瞬間ぱっと消えた。

 途端に蝉の声が聞こえ始め、蒸し暑い風が纏わり付いてきた。

 スラックスのポケットに手を突っ込むと、ひんやりと冷たく薄いものに触れた。

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