ぐちゃぐちゃ。

 代々さんと会話をすることに対して抵抗がなくなった。

 やっぱり少し難しいし、おかしなところがあるけれど、それを差し引いても彼女と話すのは楽しい。

 何を考えているのかわからないのに、不思議と安心してしまう。

 周囲も、もう僕と代々さんの動向を一々気にするのには飽きたのか、何の反応も見せなくなった。新たな噂が生まれることは、もうほとんどなくなっている。

 僕が初めて代々さんに声をかけられてから1ヶ月。

 僕と彼女が放課後毎日図書室にいようと、それには何の話題性も意外性もなくなった。

 平和平穏平静泰安。

 何事もなく、代々さんとの時間が過ぎていく。

 彼女と僕はほぼ毎日、図書室で日本語の勉強をした。

 代々さんは、図を描いたり、動作で説明したりして、僕に日本語訳してほしい物事を伝えた。僕はそれを読み取って、日本語訳を平仮名で紙に書いたり、口で言ったりする。

 効果があるかどうか僕にはいまいちわからないのだけれど、代々さんは納得して一人で頷いている。本人がその調子なら大丈夫かな。

 そんな感じのゆるい日本語勉強会で分かったことが一つ。

 代々さんは日本語を書くのは苦手だが、図を描くのは大得意だった。

 例えば「蹴る」という動作の日本語訳を僕に要求する際に、彼女はサッカーをしている人間のイラストを描いた。それが体育の教科書に載っていてもおかしくないようなものだったので、僕は驚いてしまった。関節の位置や可動域、手や足や胴のバランス等、人体の仕組みを知っているから描けるイラストだった。しかも彼女は、十秒経たない間にさらさらっと、いとも簡単にそれを描き上げてしまったのだ。

 すごいなあ、と僕は感心するばかり。

「絵、うまいね」と感想を述べると、彼女はにへへぇと笑った。

 今日は何のイラストを描くのかなあ、と僕は代々さんの手元を見た。

 ノートの端には既にいくつかのイラストが描かれているのだが、それは昨日日本語訳したものだ。

 いつものように人気のない図書室に、代々さんがノートにシャーペンを走らせる音がさささーと響く。

 そうして彼女が描いたのは…。

 なんだ、これ。

 ぐちゃぐちゃしていて、どげとげしていて、ぐるぐるしていて、ふわふわしていて…。

 それはあまりにも奇妙なものだった。ぐしゃぐしゃと、まるで未就学児が悪戯で描いたもののようだった。

「これ、なに?」

「ぐちゃぐちゃ」

 …そうなんだけど。

 ぐちゃぐちゃ、という日本語が分かっているのなら、求めているのは違う訳ということなのだろうけれど。だけど、これは何なんだろう。

 いつもみたいなイラストなら分かりやすいんだけどなあ、それでは表現できないってことなのかな。

「わからない?」

 悶々としている僕の横で、代々さんが不安そうに訊いた。

「うーん。ごめん。正直わからない」

 僕の言葉に、彼女は落胆した。

「もうちょっとわかりやすくできないかな…。僕、察しが悪くて」

「これよりもっとは、むり。ごめん」

「そっか。僕の方こそごめん。力になれなくて」

 沈んだ空気の中で、代々さんは力なく首を横に振る。ツインテイルがふぁさりと揺れた。

 その後僕と代々さんは図書室を出て、校舎を出て、駐輪場に向かった。

 彼女はずっと黙って、僕の隣で俯きがちに歩いた。

 じゃあね、と声を掛けると、力ない返事が聞こえた。

 僕と代々さんは、正門を出て反対方向に進んでいく。僕は自転車で。代々さんは徒歩で。

 自転車を漕ぎながら、考える。

 あんなに気落ちした代々さんの姿を、僕は今日初めて目にした。

 お金かもしれない物体が自販機では使えないのだと知ったときとは比べ物にならないくらい、沈んでいた。周囲に何を言われていようと、どんな態度を取られようと、あんな反応をすることは一切なかった。

 代々さんは、強いと僕は思う。

 そんな彼女があんな状態になるなんて…。

 あのぐちゃぐちゃは、彼女にとってよっぽど大きな意味があるものだったのだろう。

 でも僕には、あれを日本語に訳すことはできない。だって、ぐちゃぐちゃとしか言えない。

 何なんだろう。

 ぐちゃぐちゃで、とげとげで、ぐるぐるで、ふわふわで。

 いろんな種類の線の集合体みたいな、あのかたまりを、僕はなんて表せばよかったんだろう。


 その後も日本語講座は、何事もなく続いていった。

 あのときのような難しい問題を、代々さんは出さなくなった。

 体育の教科書に載せられるような整ったイラストを、シンプルでしっかりした線で描いた。僕はそれが表す物や動作の日本語を、代々さんに教えた。

 彼女はいつも真剣に聞いてくれて、単語を復唱したり、ひらがなを何度も書いたりしていた。

 そんなに真剣になるほどの内容が、あの手紙には書かれていたんだ。

 それなのに、僕は何も、何一つとして読むことができなかった。書いてあることすべてがへんてこりんな記号にしか見えなくて、それは何だか申し訳なくもあり、悔しくもあった。

 彼女が伝えようとしてくれた内容を、僕は露ほども知らないんだ。

 日本語に訳せるようにと勉強する代々さんの隣で、僕はいつも何をしていただろうか。ただそんな彼女の姿をぼうっと見詰めていただけだった気がする。

 僕も記号を読めるように勉強しておけばよかったのかもしれない。

 代々さんに教えてもらえばよかったのかもしれない。

 そう思っても、後の祭りだった。

 

 代々さんは一年生の頃からずっと学校の中に存在していた。クラスが違う僕でも、その存在は知っていた。だけれど関わることはなかった。

 2年生になって、同じクラスになって、代々さんが僕に自販機の使い方を尋ねた日から、始まった。

 僕と代々さんの関係が始まった。

 それは、呆れるほど唐突だった。

 何の前触れもなく、何の予感もなく。ただ適当に、何事もなく日々を過ごしてきた僕の前に、突如として代々さんが現れた。

 それはさながら立ちはだかるような感覚で。

 だけどそれは別に特別なことでも何でもなく、大抵の物事は突然目の前に姿を現すものだ。

 だから、僕と代々さんとの関係が突然始まったということに、何の暗示もない。

 ない、はずだった。

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