てがみ。
これはとても面倒なことになった。
整理しよう。
僕は先日、自動販売機の前で苦悶している代々さんに会った。君子危うきに近寄らず、僕は通り過ぎようとする。ところが代々さんに話しかけられてしまった。翌日学校に来てみると、それは周知の事実となっていて、生徒たちからいろいろな視線を送られる。代々さんはその後も僕に話しかけてくるようになった。
なんてことだ。
全然平和平穏平静泰安じゃない!
そんな僕などおかまいなしに、代々さんは今日も元気に朝の挨拶をするのだった。一方的に…。
昼休みになって、僕は一刻も速くこの場の空気から逃げ出したかったので、図書室に向かうべく席を立とうとした、ところで。
「としまー!」
と、また名前を呼ばれてしまった。
もうやめてください、と泣きつきたい。
無視してしまおうか、とさえ思っている僕の机の上に、代々さんは持ってきた自分のノートを開いて置いた。
「みて!」
と彼女が言うのに大人しく従って、僕は開かれたノートのページを覗いた。
なんだこりゃあ!
そう思ってしまうようなへんてこりんな記号が、そこにはぐちゃぐちゃと踊っていた。
何なんだい、これは?という顔で、僕は代々さんを見た。
僕と目を合わせた彼女は、にへへぇ、と笑った。そして素早くノートを閉じて、ばびゅんと自分の席に戻ってしまった。
な、何だったんだ。何がしたかったんだ。
わからない。わからない。全然わからないよ!
どっと気疲れしてしまった僕は、それでもクラスの雰囲気から抜け出したかったので、早足で教室を出た。
僕は代々さんに何かしただろうか。いや、自販機の使い方を教えたけど…。
まさか、それだけで?あれがきっかけになったって言うのか…。
今まで一言だって言葉を交わしたことなんかなかったのに。この前の自販機事件、そんなに印象的だったのかな。
でも、そうか。
もしかしたら代々さんは、この学校の生徒に声をかけたの、初めてだったのかな。
だったら印象に残ってしまうよね。納得納得。
いや、駄目だよ。
納得はできても…。
平和平穏平静泰安の日々を返してほしい。今まで結構上手くいっている気がしていたのに。
ばらばらと、がらがらと音を立てて、代々さんが僕の理想像をぶち壊す様子が脳内で流れる。
せめて夢であっておくれよ。長い長い悪夢で良い。いつか覚めるなら、僕はいくらでも我慢できる。
だけれど、いくら現実逃避的な思考をしてみたところで、ここは正真正銘の現実世界なのである。
深い溜息をついて、僕は項垂れるのだった。
放課後になると、僕は急いで帰り支度を始めた。代々さんに捕まってはならない。幸いにも本日、僕の班は掃除当番ではない。
がさがさと教科書をロッカーに詰め込んでいると、誰かに腕を掴まれた。
もしや、と思いながら顔を上げて、僕は全速力で逃げ出したい衝動に駆られた。
そうだよね、こんなことする人あなたしかいないよね。ていうか、代々さんも同じ班だったのすっかり忘れてた…。
僕は観念して、何ですかと代々さんに訊いた。
「きて」
そう言って彼女は、僕の腕をぐいぐい引っ張る。
「待って待って、ちょっと待って。ちゃんとついて行くから」
教科書をロッカーに詰めて、自分の席に置いてある通学用のリュックを取りに行く。
代々さんは掃除用具入れの前で大人しく待っていてくれた。
周囲の視線が刺さるのを感じながら、彼女と共に教室を出た。
「どこに行くの?」
「きて」
いや、だからどこに…。
代々さんは僕の腕を掴んで、ずんずんと歩いていく。ダッシュしないだけましなのかなぁ。
校舎内は走らない主義なのかもしれなかった。
階段を下りて、廊下を歩いて。
下駄箱まで来たということは、目的地は外なのだろうか。靴を履き替えるときは、さすがに腕を離してくれた。
靴を履くとまたすぐに腕を掴まれ、僕は誘導に従って歩いた。
今日は走らないらしい。もしかして僕のペースに合わせようとしてくれているのだろうか。
やがて時計塔の下で誘導は終わった。
「ここ」
…。
「ここがどうかしたの?」
僕が訊くと、代々さんはぐにょんと首を傾げた。
言葉の意味がわからないのだろうか…。
「これ!」
大声で言って、代々さんは指さした。小指で。
「花?」
僕の問い掛けに、彼女は大きく頷いた。
「これ、きれい。すき。いいばしょ」
にへへぇ、と笑って僕を見る。
そんな顔されてもなぁ…。
「ナガミヒナゲシ、好きなの?」
「ながみひなげし?」
「この花の名前だよ」
代々さんはしゃがみこんで、赤みのある透き通ったオレンジ色の花弁に目線を合わせた。
毒性を持つ雑草なのだけれど、そんなこと知らないんだろうなあ。
「かわいー」
そう言って、やっぱりにへへぇと笑って見せる彼女だった。
代々さんはそれから何分も飽きずにナガミヒナゲシと対面していた。
葉や茎や花弁や種子などを、色々な角度から観察しているようだ。
それにしてもこの場所は目立つ。また明日、変な噂が広がっているのだろうなと思うとうんざりしてくる。
「代々さん、僕帰ってもいいかな」
できる限りさりげない感じで、僕は訊いた。
彼女はうー、と言いながらしばらく考えているような素振りを見せた。
「まって」
と、手提げバッグの中をごそごそと焦り始めた。
そして、あげる!と彼女から渡されたのは、ぐしゃぐしゃに折られたノートの切れ端だった。
ごみ…?
「ばいばい!としま」
困惑する僕のことなど全く気にもとめずに、代々さんは別れの挨拶をした。
戸惑いながらも、僕は小さくじゃあね、と呟いた。
すると代々さんは、笑って僕に手を振る。軽く応じて、僕は駐輪場に向かった。
歩きながら、手の中にある紙切れを見詰めた。彼女は何がしたかったんだろう。
リュックを肩から下ろすのが面倒だったので、紙切れはポケットにしまった。
自転車を漕ぎながら、自称うちゅうじんの不思議な女の子のことを考えた。
家に帰ってしばらくして、ふと紙切れの存在を思い出した。
制服のスラックスのポケットに手を突っ込んで、紙切れを取り出した。
何を目指したのかわからないへんてこりんな折り方のそれを、破らないように丁寧に開く。
顕になった内面には、これもやっぱりへんてこりんな記号がぎっしり。切れ端一面に、無数の折り跡がついていた。
代々さんの言いたいことは全然伝わってこないけれど、へんてこなんだけど丁寧に描かれた記号を見ていると、何となくで感じられるものがある。
はっきりわかることは、彼女に悪気はなということ。
そう言えば代々さんて、日本語書けないのかな…。授業とか、どうしてるんだろう。
「かけるよ。ひらがなだけ」
代々さんは、事も無げにそう口にした。
「え、書けるの?」
こっくりと、彼女は僕の言葉に頷く。
「じゃあさ、この前の紙に書いてあったこと、日本語に訳してよ」
放課後の図書室。人気の少ない場所を選んで、僕は代々さんを誘った。
何となく話をしたかった。
周囲の噂にはもう慣れすぎてしまって、気にするようなことではなくなった。
「だめ」
代々さんはつれなく首を振った。
「あれ、てがみ。かみとちがう」
「手紙だったんだ…」
道理であんなに折り跡がたくさん付いていたわけだ。きっと、折り方がわからなくて何回も失敗したんだろう。
「どうして日本語で書いてくれないの?」
「………やだ」
そうですか…。
代々さんの否定の言葉には、他の人が使うそれより強い説得力があった。
嫌なものは絶対に嫌。やりたくないことはやらない。言いたくないことは言わない。
普段から彼女ははっきりしていて、僕はそのことをわかっているので、引き下がるしかなかった。
「よんだ?」
「いや、読めないよ。日本語じゃないんだから」
僕が言うと、代々さんはがっくりと肩を落とした。
読んでほしいなら日本語で書いてよ、と僕が言うと、彼女は首を大きく横に振った。
「あれ、かけない。にほんのことばにどうやってするのか、しらない」
…つまり、平仮名を記述することはできても、あの記号を日本語に訳すことは不可能ってことなのかな。
「でも、僕と話せてるよね。結構変なところも多いけど」
「てがみのは、これとかより、もっとだめ。あれはつよい」
手紙に書いてある内容は、日常会話とは比較にならないくらい難しい、ということらしい。
そうか。それなら確かに、今の彼女の日本語レベルでは通用しないのだろうな。
残念だなあ。何て書いてあったのか知りたかったのに。
「内容は分からなかったけど、きっと悪いことは書いてないよね」
こっくりと、代々さんはまた頷いた。
ありがとう、と僕が言うと、代々さんは一瞬びっくりしたような表情のまま固まった。そしてすぐに、にへへぇというお馴染みの笑顔を僕に向けた。
「にほんごがんばる。てがみにほんごにする。まっててとしま」
うん、と僕は頷いた。
彼女があの手紙を日本語訳するには、一体どれくらいの時間が必要なのだろう。何だかすごく長い道のりになりそうな気がする。
だけど、彼女が頑張るというのならそれは絶対なのだろうから、案外速くに、僕はそれを読むことができるのかもしれない。
「楽しみにしてる」
そう一言いうと、僕の口の両端が勝手に上がった。
あれ、何だか久し振りに笑った気がする。
そんな僕を見て、代々さんはまた、にへへぇと笑うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。