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さてここで、動揺して父の顔を唖然と見上げたことは言うまでもない。ついでに、お前今まで連絡もせず何してた、と言いたいのをぐっと堪え……みぞおちあたりに拳をお見舞いしてしまったのも、想像に難くないことと思う。
「何してたのよ、この……一年間音沙汰もなしでッ!」
居間へ上がって開口一番そう怒鳴ったものだから、流石に父も両手で耳を塞いだものの、表情は相変わらずへらへらと呑気な笑みを浮かべたままだった。
「ごめんってば。怒り方がますます母さんそっくりになっちゃって」
それはそうだ。
お母さんの苦労が偲ばれる。この男の手綱を握るのは、さぞかし骨の折れることに違いない。
母のことはあまり覚えていないが……芯が強くて物知りな、向日葵みたいなひとだったなと思う。大学で知り合ったらしい父と母は、卒業前から寮のルームメイトだったと聞いている。
母は民俗学専攻、父は日本文学専攻で、その話を聞いたときは大層驚いたものである。「てっきり美大にでも行ってたのかと思った」と言ったら、暮人は「元々絵は得意だったよ」なんて笑っていたっけ。
そういえば……お母さんの遺影も、確か綺麗な絵だった。思い返してみれば、あれは父の絵だったんだなと分かる。
父が初めて描いた遺影は、お母さんの遺影だ。
どんな気持ちで描いたのか、私はそれを知らないけれど。
「まぁね、言い訳をさせてもらうと……ちょっと旅先の秘境で行き倒れてちゃってね。現地の人にお世話になってて、そしたらさ、なんとその部族の女の子と結婚させられそうになっちゃったわけ。そんで命からがら逃げてきたのよ」
「吐くならもっとマシな嘘をおっしゃい」
「ええ?嘘じゃないのに」
スパッと斬り捨てても一向にこの男のペースは変わらない。究極にマイペースなのだ、こやつは。
怒りの収まらない私をまぁまぁと宥め、暮人は頬杖をついてこちらを覗き込んだ。
「まぁ今の話も嘘じゃないけどさ、旅に出てる間に大事な一人娘が画業始めたっていうじゃん。そりゃ帰ってくるね」
「……は」
いきなりそんなことを言われたので思わず固まってしまったし、急に核心を突かれたようでい心地が悪かった。
言葉を探しあぐねている私に、更に父は続けた。
「まぁ前からそんなことは言ってたもんね。死ぬほど驚いたってわけじゃないよ。でも一応聞いていい?」
どうして遺影を描こうと思ったの。
変わらない穏やかな笑みのままこちらの反応を伺う父を前に、茹だった脳みそが急激に冷えていく心地がした。
「わ……かんない。わかんなかったから描こうと思ったの。私ね、お父さんの絵の中で一番、お母さんの遺影が好きで……」
うん、と急かさずに続きを促すから、私はどうにか言葉を──得たであろう答えを探した。
「……あのね、依頼を受けたの。いくつか。みんなすごく笑顔だった。ありがとうって、すごい優しい顔で言うの。
……みんな、自分がもう長くないことなんて分かってるの。なのに悲しそうに見えなくて……周りの人よりずっと幸せそうだったよ」
「……そう」
「すごく悲しくなった。こ、こんなあったかいのに、それがもうすぐいなくなっちゃう証拠みたいで、そういう風に描くことしかできないのに、し、したくなかった」
「そっか。ほら鼻かんで。涙拭いて」
「……でもね、私にしかできないって、言ってくれた人がいたの。だから描いたの。す、すごく大変だったし、いっぱい辛かった。でも、でもね、」
描いてよかったって、思ったの。
ティッシュがしわくちゃになるまで握りしめてそう言ったわたしに、父はそっかと呟いて、そうして私の頭を抱き寄せた。
「頑張ったねぇ」
何年経っても変わらない、描く絵と同じ温度の優しさ。
久方ぶりの父の温もりに、私は子供みたいに泣きじゃくったのだった。
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