宵待草のスフマート
1
夏の昼下がりは頭の中まで灼き尽くすようだった。
Tシャツとハーフパンツにサンダルをひっかけた適当な格好でバスに乗り、涼しい車内でようやく息をつく。
海辺はもっと暑かろうな……とやや気分は沈むが、車窓からは美しい青が見えることだろう。
さて、もう少しだけ私の父──暮人の話をしよう。
彼は私が小さい頃からアトリエに引きこもり、延々と絵を描き続けていた。
しかし、絵を描くことと同じくらい、外へ出かけるのも好きな人だった。
しょっちゅうどこかの城だの寺社だのに連れていかれたのも、朧気ながら記憶にある。解説をされたって当時の私には何も分からなかっただろうが……。
父は好奇心旺盛で、子供みたいにそこらじゅうのものに目を輝かせていた。ひょろりと高い背丈の優男で、私が四歳の頃亡くなった母の代わりに、男手ひとつでここまで私を育てたひと。
……いや、正しくは中学まで育てた、と言うべきだろう。
実は私、父が今どこで何をしているのか、全く知らないのである。
暮人は外で色々な見物をするのが趣味だった。私が高校に上がってからは家にいないことの方が多くなり、どこへ行ったかと思えばカメルーンだのマダガスカルだの、ブルガリアだの。もはやあのひとに国境なんて概念、説くだけ無駄だ。
彼はちょっとマイナーな所へ行くのが好きらしかった。
だから土産は変な仮面だったり、聞いたこともないような銘柄のお茶だったりした。
それがここ一年、めっきり音沙汰がない。
さすがに心配になって連絡をしたが繋がらないので、何処ぞの秘境にでも足を踏み入れているかもしれないし、行き倒れて聞いたこともない民族にお世話になっているのかもしれないし、最悪の場合──
そこまで考えて首を振った。
あの男がそんな簡単に死ぬタマとは思えない。
けれど、こうして仕事でもないのに私がアトリエの方へ向かっているのは、昨日、祖父から連絡を受けたからである。
明日、すぐにこちらに来てくれと。
流石に嫌な予感がするのだ。だって、祖父がそんな急の連絡をしてくるなんて、絶対に父絡みでしか有り得ない。いや、でもそれならまず娘の私に連絡が来るかもしれないが。
とにかく、行くしかなかった。
気持ちは先走りつつ、バスを降りて石畳の階段を降りて、今日は砂浜の手前を左へ。
他の住宅と同じように建てられた旧い木造の家が、祖父の家。父の実家であった。
インターホンを押して、早まる鼓動をどうにか抑えつけた。
誰かがスリッパを履いてこちらに来る足音が聞こえる。
引戸がガラリと開いた。
「久しぶり。お、おじいちゃん、何があっ……た……」
何があったの。慌ててそう聞こうとした私の言葉は、途中でしりすぼみになって消えた。
「久しぶり。元気してた?」
齢85の老翁にしては歯切れのよい、若い声。
目の前にいたのは、ひょろりとした背の高い優男。
「わ」
「わ?」
「わーーッ!!??」
「うぐぅッ!?」
何を隠そう、正真正銘、変若水暮人。
私の父だった。
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