7

 翌日、病院。


「おはよう、小夜さん」

「……おはようございます」


 私は危うく、持っていた荷物を取り落とすところであった。

 車椅子に座る彼女が着ていたのは、病院の入院服ではなく──初めてあった日の、辛口のブラックのスーツ。

 どう考えても病人が着ていいものではない、窮屈なそれ。


「蓮華さん、それ」

「ええ。あなた、これを描きたかったんではない?」


 違ったかしら?とばかりに小首を傾げる蓮華さんに、瞠目して声も出せなかった。


「なんでわかって……?」


 恐る恐る尋ねると、彼女はさも当然かのように笑って言った。



「だって私、教師見習いよ。人の思いを汲み取れない人間が、人を導けて?」




 看護師さんの話によれば、蓮華さんも相当頑固だったそうだ。自分の寿命とか限界とかいうものを顧みなかった。

 この絵の完成を、ただ楽しみにしていた。最高の遺影を見たかったらしい、と。

 この美女にここまで言わせておいて愚図っているなど、絵描きとして、いや人間としてあまりに底辺である。描くしかない。


 そしてやはり、らしいなぁと思った。

 そういう、ちょっと滅茶苦茶をしてでも自分を貫き通せるところ。それはやはり、私の描きたい彼女の美しさであると思う。


 もう揺らぐことは無い。このまま、私の見えるものを描いていこう。


 それから一週間にわたり、病院へ通った。日に日にやつれていく蓮華さんが心配になって、本当にこのまま描き進めてよいものかと尋ねたが、彼女は何があったって首を縦に振った。

 まさに、もう終わりが近い。それでも衰えない意志の強さ。

 鮮やかな煌めき。父には見えなかった、描けなかった領域。

 私自身も、訳の分からない高揚感に突き動かされて筆を走らせた。夢中で、悲しみも不安もなにもかも二の次で。



 そして一週間目、ようやく絵は完成した。

 彼女が車椅子から倒れ落ちたのも、その日だった。





 二日経った。

 キャンバスだけを持って、病室へ向かう。

 フロアの奥まったところにある、静かな個室。


 部屋の前にいた、もはや見慣れた看護師さんに会釈をして、ドアをノックする。

「お入りになって大丈夫ですよ」という看護師さんの言葉に頷いて、そっとドアを開けた。

 隅のベッドに、蓮華さんが眠っていた。

 呼吸器を付けていて、微かに胸が上下していることだけは辛うじて見て取れる。


 ベッドに寄って、蓮華さん、と声をかける。

 それでも目が覚める気配はなかったので、もう少し大きな声で名前を呼んだ。


「蓮華さん」


 彼女の瞼がおもむろに上がって、ふとこちらを見つめる。

 そして私の手元を見て、少し目を見開いた。


「そ、れは……」


 私は頷いて、キャンバスにかけていた布をそっと払う。彼女に見えるように、すこし斜め下へ傾けた。少し、緊張する。

 蓮華さんが息を呑むのが感じ取れる。


「あ……」


 私が描いた、蓮華さんの遺影。

 スーツ姿でこちらにほほ笑みかける蓮華さんが、長い脚を悠々と組んで椅子に座っていた。手元にはティーカップとソーサー。人物がキリリとまとまっている分、背景は、蓮華草のような明るく淡い赤紫で引き立てた。


 遺影らしくはなくて、でも、いっとう蓮華さんらしい、彼女の姿だった。


「いかがでしょう」


 ベッドの上の蓮華さんは絵を見て、しばらくそれを眺めたあと、ほろりと涙を零した。

 そうして消え入るような声で、でも確かに言ったのである。


「……あぁ」


 じっと、耳を傾けた。


「これが、見たかった……」


 そうしてこちらを見て、ありがとうと囁いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る