5

 果たして、私の予感は現実のものであるらしかった。


 病棟の受付で久持川蓮華と名を告げれば、小柄でくりっとした目の看護師はすぐに病室を案内してくれた。恐らくここは、今回に限らず、蓮華さんが普段からお世話になっている病院なのだろう。

 しかし、物事はそうスムーズにはいかないものであった。


「あ、ところで……久持川さんとはどういった間柄でしょう。」

 ここに書かなくちゃいけないんですと看護師が指さした面談カードには、患者との間柄を書く欄が設けられていた。

 ここで素直に事情を話すのは面倒だが、妹を名乗るわけにもいかないし。

 数秒迷って、はっと気付いた。


「久持川先生の教え子なんです。さっき病院へ運ばれていくのを見て、それで……」


 我ながらやや苦しい気がしたが、年齢的には間違っていないので看護師にはアッサリ信じて貰えた。


「久持川さん、先生思いのいい生徒さんをお持ちですね」とニッコリ笑いかけられたのを曖昧に流して向かった病室は、フロアの随分奥まったところにあった。

 角部屋で、部屋の前のプレートを見る限り蓮華さん以外の患者はいない。個室だ。

 やはり長期の入院をしていたらしい。

 控えめにドアをノックしてから、もしかしたら返答ができないかもしれないと思い至ったが──しかし中からは「どうぞ」と閑かな声がした。

 ドアをちょっとだけ開けて顔を覗かせると、色んな管に繋がれてベッドに横たわる蓮華さんと目が合った。


「いきなりすみません」


 彼女は少し驚いて目を見開いたあと、「よくここがわかったわね」と言って椅子に座るよう促した。


「本屋に寄ろうとしたら、目の前の大学に救急車が入っていくのが見えて……気になっちゃって」


 そう、と蓮華さんは頷く。長い黒檀が枕元に散って花みたいだった。

 先日の快活な姿とはあまりに真逆な手弱女の様に、私は暫し言葉を失った。


「それは私で間違いないわ。丁度講義が終わって、あとは研究室に寄ってから帰るだけだったの」


 こんなにボロボロなのに、よりによって教職なんていう立ちっぱなしの仕事を。

 なんだかとてもいたたまれたいような気分になって、眉間に力が入った。


「……なんでかしらね。体調は決して良くないのに、元気だった頃よりもずっと気持ちが明るくて。なんでも出来そうな気がしてたの」


 でも、もうそろそろだめね。あぁ、途中だけれど代金は払います。そう言って、蓮華さんは悟ったように目を伏せた。

 絵は、まだ色を塗っていない。このままでは味気ないモノクロの下描きで終わってしまう。彼女の理想とした、満足のいく終わりを描くことができずに逝ってしまう。


 写真ではだめだ。実物の色味とはどうしたって違ってしまうから。

 でもここから遠いアトリエに行くのはもう、無理がある。元気そうに見えても、やはり限界は近かった。

 だったら道はひとつしかない。

 カラカラの喉で息を吸った。


「蓮華さん、ここで絵を描きましょう」


 私の提案に、蓮華さんはえ、と大きな目を更に見開いた。黒曜石の瞳が光を反射してきらきらしている。

 しかし狼狽えたように視線をさ迷わせ、シーツの上できゅっと手を握りしめた。


「で、できるの?」


 期待半分、不安半分といった表情だ。

 でも、多少無理やりにでも励まさないといけない気がした。


「できます。えっと、看護師さんとかに相談します。ここで無理なら中庭でもいいし、とにかく移動が短くて済むように」


 とにかく必死に伝えた。私は彼女の理想を、諦めて欲しくなかった。

 蓮華さんは、多少の惑いは残しつつ──最後にはしっかりと頷いた。


「……わかったわ。お願いします。私の命が続く限り、あなたに預けるわ」


 そう言って蓮華さんは起き上がり、深々と頭を下げる。無理に起き上がった躯は肩が震えていて、今度は私が狼狽える番だった。


「いえ、そんな!私が描きたいからやっているんです。どうかそんな、」


 言いかけて、蓮華さんにきゅっと手を握られた。


「いいえ。普通の画家では絶対に頼めない。あなただからこそなのよ。死にゆく人間の鮮やかさは、遺影画家にしか描けないわ」


 蓮華さんの真剣な、真っ直ぐな眼差し。そして、その言葉で思い出した。

 いつかの父が、遺影を描いているときの表情を。

 寂しそうで、どこか悔しそうで……。


 彼は、描けなかったのだ。


 彼が描きたいものは、あたたかさでなく、目に痛いほどの眩しさ。散りゆく花の鮮烈な色だったのだ。


 そのひとの生が間違いなく美しかったこと、その魂の気高さを。


 それは確かに魅力的で、素晴らしい絵になることだろう。けれど、間違いなく、風前の灯となる命の証明でもあるのだ。

 なんと、哀しいことか。

 私が描ききることは、できるだろうか。


 ──否。

 描けるかではない。描くしかないのだ。

 それこそが私の、描くことへの意義。遺影画家という仕事の理由なのだから。


「絶対に完成させます。だから、あともう少しだけお時間を」


 蓮華さんは力強く頷いて、ありがとうとか細く呟いた。


 そして翌日の午後、私は再び病室を訪れた。

 キャンバスと、画材を一式抱えて。


「すごい大荷物」


 車椅子の上、口元に手を添えて驚く蓮華さんに、私は苦笑した。


「実は途中まで看護師さん達に手伝ってもらいました」


 この大荷物は、午前中にアトリエから運んできたものである。早朝五時に家を出て、寄り道もせず必要最低限の荷物を引っ掴んで病院へ来たけれど……やはりお昼をまわってしまった。


「蓮華さん、昼食はお済みですか」

「ええ。十一時過ぎに」


 では、と荷物を抱え直す。

 ナースコールを押すと、すぐに昨日の小柄な看護師さんが現れて、蓮華さんの車椅子を押して行ってくれた。


 昨日に病室から出たあと、私はまっすぐにこの看護師さんの元へ相談に行った。気の良さそうな人で、無論理解を示してはくれたが……しかしこの人の一存で病院内を使わせてもらうわけにもいかず、組織のちょっと偉い人のところまで通されて事情を話すことになった。

 そこでもやはり、病院の一部を使わせて貰うことには合意を得られたが、やはり肝心の蓮華さん本人の体調が第一である。彼女の主治医である医師には当然のごとく渋られたし、私も一晩たって頭が冷え始め、そうだよなぁ……と思いながらそれを聞いていた。

 なにせ、絵のモデルというのは存外に体力を使う。私も小さい頃は父の絵のモデルになっていたが、休憩が少なくて音を上げたものである。

 しかし、ここで蓮華さんが粘ってくれた。

 そこでようやく諸々の意見が合致して──こまめな休憩やなるべく短時間で終わらせることを条件に、絵を描くことが許されたのだった。

 恐らく、普通だったら到底許可の降りない案件ではあったと思う。けれど、必死に説得をしたこと、何より蓮華さん本人の意思が強かったことが功を奏したのではないだろうか。


 結局、人は意思でしか動けないものだ。心の奥底では。


 中庭はそれなりに人で賑わっていた。風通しが良くて、芝生の青が濃く薫る。

 看護師は車椅子を日陰にとめて、こちらに一礼して去っていった。


「ええと、イーゼルを組み立てますね」


 蓮華さんはニコッと微笑んで了承の意を示した。

 もうすっかり慣れた作業ではあるが、いつもより心なしか手つきに引っ掛かりを覚える。

 ……いや、ここで私が怖気付くな。蓮華さんにあそこまで言ってもらった、その期待を裏切るな。

 自分を叱咤して、イーゼルの部品を握りしめた。


 しかし、やはり思うように作業は進まなかった。手が震えてきて、パレットに思うように色が混ざらない。今になって、私はとんでもないことをしでかしたのかもしれないと、そう思えてきて唇を噛んだ。

 その手でぺた、とキャンバスに筆を押し付けて、でも直ぐに離してしまう。

 どう描いたらいいのだろう。

 彼女のことを、どんな色で残したら。


 結局その日は、うまく作業が進まなかった。

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