夏の日の入道雲
「はんじょう、久しぶり」
緊張で震えた一言は、砂利を踏む靴音に掻き消された。半透明の脂汗を親指で拭う。
前髪が薫風に靡く八月の午後だった。
「数ヶ月振りだけど、元気にしてた?」
不自然な程に朗々たる声を発し、対面する。
彼から返事は無い。虚しさを誤魔化す様に口角を上げた。
「今日ははんじょうに花束を買って来たんだよ。こんな殺風景じゃ味気無いだろ?」
初めて君に花を手渡した時、キザだの痛いだの散々罵倒された事を思い出す。それでも、恋人から貰った花が綺麗だと先輩に自慢してたよな。
左手に掲げた袋から徐に花々を取り出した。
勢いの余り花弁が二、三枚はらりと舞う。地面に吸引される様にして。
「菊にスターチス、そして、白のトルコキキョウ。三種類だけど鮮やかじゃないか?」
慣れた手付きで花を飾ると、周囲に蜜の香りが蔓延した。日光が花粉の粒を光らせる。
君は喜ぶだろうか。返事は無い。
「……あ、そうだ喉渇いてない?水、持って来たから」
太陽が温くさせた水をコップへと注ぐ。
手が震え、僅かに溢れた。ごめん、と一言零す。君の返事は無い。
「……返事くらいしろよ。あ、葉が付いてるよ。ほら」
枯葉を手で一掃する。人一倍身嗜みには煩いのは君だろ、はんじょう。
「……返事しろって。ごめん、怒ってる?」
視界が揺れ動く。焦燥感を紛らわす様に髪を掻き上げ、空を眺めた。コバルトブルーが目に焼き付く。
最後に二人で旅行した際、君が履いていた靴の色だ。サイズが少し窮屈だと君は笑っていた。
その表情を忘れもしない、忘れられない。
夏が僕達を引き合わせたよな、と呟く。
数年前の炎天下、君は洒落た服を纏って最寄駅へ来た。斯く言う僕は五百円のTシャツを着用し、はんじょうに心底呆然とされた。
「俺がおにやの服、選んでやるよ」
思えば初めてのデートだった。
真夏の太陽の下、互い共服を口実に延々と歩き続ける。
途中で休憩した喫茶店は冷房が効いて、珈琲が美味だった。今はもう、閉店しているけど。
袖口で必死に汗を拭う君を眺め、言語化し難い罪悪感に苛まれた。シャワー使えば、と不器用に自宅へ招く。その夜、酔った勢いを利用し冗談混じりで告白した。
「はんじょう、覚えてる?僕が告白した後、君は号泣したんだ。馬鹿だろお前、って」
返事は無い。僕は構わず続ける。
「馬鹿はお互い様だったよ。君と恋人だった事は、幸せだった」
世間に非難されても、はんじょうと些細な事で笑い合えれば十分だった。
「だからさ、頼むよ。返事をして欲しいんだ。うるせえ、の一言で構わないからさ」
鼻奥が痛み、呼吸が荒くなる。心臓が潰れる程に鼓動を速めた。
それでも伝えたい事の為に、言葉を紡いだ。
「……返事、してくれよ。怒ってるよな、はんじょうの事、一人にして」
嗚咽が混じり所々発音出来ない。途切れた言葉を必死に繋ぎ止める。
「何で、返事をさ、してくれないんだよ……」
声を荒げ、君を倒れ込む様に抱擁した。涙で視界が霞み、意識は朦朧とする。
「何で、僕を置いてったんだよ」
「何で、先に逝ったんだよ……」
全体重が消えた様に膝から崩れ落ちる。
腕の中には墓石だけが眠っていた。君はもう居ない。
「はんじょう、僕達は本当に馬鹿だよ」
だろうな、と笑い返答する声は切望しても聞こえなかった。
このまま入道雲に攫われてしまえば良い。君が居なくても美しい夏の日だった。
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