恋人の君

ベルガモットの香水が鼻腔を蕩かす。瞬間、男が俺の名前を呟いた。はんじょう久しぶり、と口角を微かに上げ笑う彼から視線を外せずに居た。

黒髪のふわりとした髪を丁寧に整え、清潔感溢れる背広を纏う彼を俺は知らない。


俺の知ってるおにやは、もう何処にも居なかった。


椅子に腰掛け、すらりと伸びた足を器用に組む。動作の一つ一つが様になる男へと成長していた。

社交辞令と軽い世間話を交えつつ、酒を嗜み彼と過ごした思い出を噛み締める様にして会話を仕掛けた。

「数年振りの再会に、乾杯」

「はいはい、乾杯。……おにや、成長したよな。昔は面倒で大沼って印象だったのに、今では甘いマスクの色男じゃん」

彼は戯けた動作を取りつつも照れ臭そうにする。

「そうかなぁ?僕だってはんじょうに驚いたけれどね」

「何で?」

赤ワインで喉を湿らせ此方を見つめる。

「だって、昔と変わらず魅力的だから」

桜色の唇を僅かに動かし、ハスキーな声色で囁いた。頬に熱を感じ、指先が忙しなく動く。

期待するだけ虚しいぞ、と自身に言い聞かせグラスに浮遊する氷へと視線を移した。


酔いが回り何処か夢心地な俺を呼び覚ましたのは、おにやの一声だった。


あのさ、と俺に呼びかけ、人形の様な眼で此方を一瞥する。軽い世間話を交えつつ二杯目のワインを飲み干した所で淡々と君は呟い

た。


「僕、結婚するんだ」

正直、想定内だった。

彼から久々に連絡を受けた時点で推察していた。筈なのに、胃中の物がどろりとした感覚に襲われる。

「そうなんだ。おめでとう。式は?」

ごく普通な、形式的な返答。脳内では先程の言葉が反芻する。

「三ヶ月後。……お袋が長らく入院してる事、知ってるだろ? 早く孫の顔が見たいってさ、泣かれたんだよ……」

無言。四秒後にそっか、と愛想笑い。


おにやは俺から視線を外し会話を続行させる。遠い昔を懐古する様にして。

「……なあはんじょう、二人で逃げない?」

「は?」

「昔の様に二人で同棲してさ、田舎に住み着こう。定期的にもこさんや加藤さんも呼んでさ」

「……結婚の話はどうするんだよ」

「嘘と誤魔化す能力には自信があるんだ」

おにやは笑った。昔の様な表情で。

十年前、恋人の時に見せた笑顔だった。


僅かな無言。気不味そうに君は笑う。

「……なんてな、冗談だよ」

「だろうな」

「……僕、はんじょうと出逢えて良かったよ。この先会えなくてもさ、覚えていて欲しい」

真剣な眼差しを此方へと向け、数回瞬きをする。其れは黒い宝石、オニキスを彷彿とさせた。

「忘れられるかよ。だって……」

もう後戻り出来ない。

声が震える。


「お前のこと、おにやのこと……、本当に好きだったから」

俺は捨て難い感情を吐露した。無音の世界に放り込まれた様な感覚に陥る。


「僕も、愛してたよ」

おにやは人差し指で目元を拭い、一言告げる。そこで彼が涙を流している事に気付いた。込み上げる嗚咽を喉元で殺し、ありがとうと笑い返す。

昔の様に互いに抱きつく事も、唇を交える事も無かった。


「今日は楽しかった、ご馳走ありがとうな」

「此方こそ。……さよなら、はんじょう。君の幸せを願ってる」

「お前こそ元気でな」


そうして互いに握手を交わす。これが最後の触れ合いになるだろう、と思った。

遣る瀬無くて幸福な握手は後にも先にも経験は無かった。

本当は、今でもお前が好きだよ。


最後に俺の目に写ったのは友人の君で、既に恋人の君は消えていた。

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