星の僕

@ajisawa-0410

第1話

「雨、止みませんね……」


「星、このままだと見えないでしょうか」


 故人は言った、「月が綺麗」とは、「あなたのことを愛しています」という想いの言葉なのだと。


 僕は、思う。


 そんな、飾った言葉は要らない、貴女は、きっと気付かないのだから。


「雨、止みませんね」


 もう少し、傍に居たいです。


 もう少しだけ。




「おはようございます」


「おはようございます、郁いくさん」


僕はいつものように玄関を出て、郁さんと合流して、いつものように目的地へと向かった。


 僕は皺の少し寄った制服を身にしている。


 彼女は郁さん、苗字は分からない。




 彼女、郁さんとは一ヶ月前、ネット上のチャットルームで出会った。


 リアルで初めて出会って、ネットで出会った時と同じく、誠実で思いやりのある人だと知った。




 でも、リアルで出会って驚いたこともある。


 その、容姿だ。


 不思議、という一単語では表せないけれど、その言葉がきっと世界で一番似合う人だ。


 世界を映し出す、空色の瞳。


 その美貌に似つかわしい、風に揺れるワンピース。


『貴方が、郁さんですか』


『はい、郁と書いて、いく、と読みます』


 名刺を僕に差し出す。


 紙の中心に『郁』と書かれていた。


『あ、僕は…………』




 そこは、辺り一面が輝く世界。


 その廃工場は、アイドルのステージのようにも感じられるほどに輝いている。優しい瞬き。


 僕達は、探している。


 宙に舞う埃が、陽の光を浴びて、ちらちらとか細く瞬いている。


 まるで僕達二人だけの、美しい世界の様に。


 二人の足音だけが廃工場の中に響く。


 足元を見れば、二種類の足跡と、硝子片が散らばっている。


「それじゃあ、始めましょう」


 郁さんがそう言って、僕がそれに相槌を打つ。


「そうですね」


 そして 僕達は、黙々と硝子片を拾い上げ始める。




 僕達は、探している。


 僕達にしかない、何かを。


 宝物を、そして何かを。


 あるかどうか、見つかるかどうか分からない。


 だけれど、僕らは探し続ける。


 僕らは、それを見つけようと。




 僕らはきっと、この為に生まれ、生きているんだ。






「ふぅ…………ぅう」


 僕はお爺さんみたいに、呻きにも似た声を上げた。


「そう、ですねっ」


 郁さんも同じく伸びをする。


 僕の手には、小さな、歪いびつな形の硝子片が数枚握られている。


 手は切れて、硝子片を赤く染めている。


 しかしそれでも尚硝子は陽光を浴びて輝きを放つ。


「まるで、惑星ですね」


 突然の言葉に、郁さんを見る。


 郁さんは、硝子片を天に翳かざしていた。


「惑星は、周りの光を反射して、それからやっと輝けるでしょう。恒星は、自ら眩く輝く力を持っている。例えば、生まれながらのスター。例えば、天性の才能を持つ天才。けれど、この硝子片は、私が天に翳して、陽光を浴びて、そしてやっと輝く…………ほら、惑星みたいでしょう」


「…………………………それだったら」


 それだったら、


「僕達も、惑星ですね」


「それもそうですね……」


 僕達は、一人では輝けない。


 光の元に行くことも、足掻くことも。


 郁さんが居て、僕が居て。


 僕らは惑星だ。


自ら眩しく煌めく恒星では無くて、誰かが居なくては生きることも許されない、愚かな惑星。




 自分の傷だらけの手を見ていた。


 血はもうとうの昔に乾いているし、埃も付いて見るに堪えない。


 郁さんの身に纏われた洋服も、埃や血がついて、汚れている。


 郁さんの手は白いから、余計汚れや傷が目立つ。


「手、大丈夫ですか」


 僕が郁さんの手を見つめていると、郁さんがそれに気付いたのか、声を掛けた。


「あ、いえ、その。郁さんの手、綺麗なのに、傷とか、目立つな、て」


 ああ、これですか、とヒラヒラとしながら自分の手を見つめた。


「大丈夫です。なんか、こういう怪我って、探検家とか、トレジャーハンターみたいで恰好いいな、って。そう思いません」


 郁さんのその言葉は無邪気で、とても年上(実際に年齢を聞いたことは無いので、恐らく、だが。一回聞いたら、「レディに年齢は聞いちゃだめですよ」と怒られた)の女性には見えない。


「そうかもですね。郁さんみたいな探検家が居たら、怪物も海賊も盗賊も惚れちゃいます」


「じゃあ、将来の夢は探検家にしましょうか」


 郁さんの顔が思わずという風に綻ぶ。


「あ、もうお昼ですよね……昼食、私が買ってきましょうか」


 郁さんが時計を見てそう言った。


「あ、僕買ってきますよ」


「…………本当ですか。じゃあお願いできますか?」


 こういう所が好きだ。


 僕が意見すれば、それを尊重してくれる。人に任せきりと言えばそれきりだけれど。


 悪く言えば人任せだけれど、郁さんの長所だと、僕は思う。


 なんというか、年の差を感じる。とても、郁さんが大人に見えるから。


「じゃあ、行ってきます。希望とかありますか」


「いえ、お勧めセレクトでお願いします」


「分かりました」


 行ってらっしゃい、とまるで我が家のように送り出してくれた。




 サンドウィッチと、鮭お握り。もしくはグラタン。オムライス。


 郁さんはどれが好きなんだろう……


 僕は滅多にコンビニなど行かないし、お勧めも特にない。


 コンビニの場所を知っているのはあくまでも地形の一環としてだけだし。


 迷った末、僕は卵のサンドウィッチと、デザートにホイッププリンを手に取る。


 そして僕用に、一番安い塩お握りを手に取った。


「六二四円になります。お握りは温めますか」


「…………いいえ……結構です」


 郁さんの元へ帰る頃には、微妙に冷めた『生温い』お握りが出来上がっているだろう。


 温める訳にはいかない。温めた方は美味しいけれど。


 俯いたまま店員の声に応答する。


 人と話すのは苦手だ。


 相手の感情が推し量れなくて、図り切れなくて。


 作り笑顔を浮かべて、呂律も回らないような調子の良い建前を述べる。


 だから、お握りを温めるかどうかなんていう、人生に一ミリも関係無いような会話も、。上手く出来ない。






「郁さん、買ってきました」


 廃工場の中に入ると、変わらず埃が舞、輝いていた。


 コンテナの上に郁さんが腰掛けていた。


 辺りも輝いて、まるで、そう。


 全ては、この世界の全てが、郁さんのためだけに存在するかのような。


 じゃり、じゃり、と鳴る、僕の足音さえも。


「あ、お帰りなさい」


 郁さんはこちらに気付いて、コンテナから僅かに腰を浮かして、壁側に大きくずれた。


「あ。有り難うございます」


 おずおずと郁さんの横に座る。


 今にも肩が触れそうで、鼓動が速まる。


「あ、私、サンドウィッチ、好きなんですよ。卵、好きなんです」


「そうなんですか、僕もコンビニにあまり行かないので、どういうものが美味しいかよくわからなくて……気に入ってくれて、嬉しいです」




 その後も「たからもの」を探した。


 本当なら、僕が学校から下校するくらいの時間まで。






 残り、七日。






「おはようございます」


「ええ、おはようございます」


 いつも通りの会話。


 僕も昨日と同じ服装。


 郁さんも、昨日とは優しい風に揺れる若葉色の、レースをあしらったワンピース。


「今日、お弁当持ってきたんです。よろしければ、一緒に食べましょう」


「ありがとうございます。お昼、楽しみです」


 目を見合わせて笑ってから、じゃあ行きましょうか、と歩き出した。


 僕達だけの場所へ。




「今日も…………だめでしたね」


 郁さんが僕に駆け寄ってきた。


「僕は……」


 言おうとした言葉を飲み込んで、


「そうですね。………………きっと僕達なら、大丈夫ですよ」


 郁さんが居るから。


 郁さんが居れば、一人じゃないから、探し続けられるから。


「ええ、お役に立てて、何よりですよ」


 笑って、答えてくれた。


「ねえ、郁さん」


「なんでしょうか?」


 くたっ、と首を傾げる郁さん。可愛い。


「ずっと、見つかるまで、ずっと一緒に居ましょう」


「………………そう、ですね。そうですね」


 優しい笑顔を浮かべる。


 きっとこの時一瞬、たった一瞬だけ表情が曇ったのは気のせいだ。


 きっと。






 僕は電気のついてない我が家の扉を開けた。


 中でごみの臭いが立ち込めている。


 人の『居た』形跡は多くある。


 両親は随分前に離婚して、たまに家に帰ってくる母はカップラーメンを食べて、すぐに家から居なくなる。


 だから大抵家では一人だ。


 でも、親がいても空気が重くなるだけだし、一人の方が気が楽。


 親との諍いもなく、何もなく、教えられることも与えられることも奪われることもなく。


 ただ、一人で居た。


 もう、寝よう…………




 残り、六日。






 朝、チャットが届いていた。


 郁さんとの個人チャットだ。


『おはようございます、今日私、朝行けないと思うので、先に出掛けていて貰えますか。申し訳ありません。お昼頃に向かう予定です』


 つまり、今日は遅れるということだった。


 仕方ないので、いつもは口にしない食パンを、オーブントースターで焼いて、バターを塗って食べる。


 じゅわぁ、とバターがパンの上で滑る。


 うん、美味しい。




 廃工場へ向かう。


 中へ入ると、


「あれっ、郁さん」


 お昼に来るはずの郁さんが居た。


 コンテナに乗っている。


 返事が無い。


 近寄って見ると、郁さんは眠っていた。


 静かに寝息を立てている。


「すぅ……すぅ……」


 けれど、すこし呼吸が乱れて、汗が額に浮かんでいた。


 悪い夢でも見ているのか…………


「郁さん、どうしたんですか」


 ユサユサと体を揺らす。起こさない方が良いかとも思ったけれど、風邪を引いてしまうだろう。


「郁さん、郁さん」


 ん、と一瞬瞼が強く瞬かれ、うっすらと目を開けた。


「あ…………すみません、寝ていましたか」


「いえ、大丈夫ですか。すみません、お昼に来ると聞いたので、遅く来たんですけど……大丈夫ですか?」


「いえ、やっぱり来れるようになったので。少し眠いなあって思って」


「そうだったんですね。起こしてしまってすみません」


 この時、郁さんが居て少し嬉しかったというのは秘密だ。




 無機質な音を立てて、硝子片を拾い上げる。


「った」


 ぴっ、と手に赤い線が出来た。


 そこから、どんどん血が溢れる。


 口に含むと、鉄の味と共に、砂の味もした。


 水で流せば良かった……




「そろそろ、帰りますか?」


「そうですね。あ、家に寄りませんか、絆創膏、渡しますから」


 郁さんの家は、廃工場から僕の家を通って更に奥……らしい。


 家まで行ったことは無いから細かい場所は知らないけれど。




 帰り道、今日も下校時間頃に帰る。


 ……と。


「っ!」


 前方から、元クラスメイトの人が歩いてきた。


 僕は制服だし、気付くかもしれない……


「でさ、聞いてくれよー」


「知らねえよ、俺に言うな」


 しかし二人は、僕を一瞥しただけでそのまま通り過ぎた。


 二年も学校に行っていないのだから、僕の顔を知らなくても当然だ。


「……今の、クラスメイトさんですか」


「ええ、まあ……」


「見られては、困るのですか」


 はい、と小さく頷いた。


 不登校の癖に、制服着て美少女と歩いていたとか、洒落にならない。


 それにあいつ等の顔を見ると、また、嫌な記憶がぶり返すから……




「はい、これ、絆創膏です」


「有り難うございます」


 郁さんに、外紙を剥がして渡すと、内側の粘着部分の紙を剥がして郁さんはすぐにぺたりと指の傷口へ貼った。


「では、これで」


「また明日」


「はい」




 残り、五日。




「おはようございます」


『おはようございます』


 一日ぶり、郁さんが朝チャイムを押した。


 インターホンのスピーカーから郁さんの声。


「すみません、今日、母がいるので……五分、待って頂けますか」


『勿論大丈夫ですよ』


 リビングのソファからは、お風呂にも入らず、煙草の臭いを付けたまま眠りこける母の寝息が聞こえる。


 掛け布団もせず、明らかに風邪を引きそうな恰好で寝ている。


 栄養失調でもなんでも、早く死んでくれればそれまでだが、母はなかなかにしぶといし、どうせ周りに沢山迷惑を掛けて死んでいくのだろう。


 だったらせめて周りに迷惑を掛けないようにでもしてほしいものだけれど。


 ご飯や服がなければ、他の男の家に泊まって、服や飯を貰って帰ってくる。


 だから家にはたまにそういう男からの電話がかかってくる。




「すみません、待たせました」


「そんなに待ってないですよ」


 母の近くにお握りを置いて、布団を掛けて出てきた。




「ねえ、郁さん」


 僕は、顔を上げて、郁さんを見る。そして、心の内に秘めた言葉を言った。


 硝子片を拾いあげながら郁さんに声を掛ける。


「僕達は、本当に……見つけられるんですか」


「…………え?」


 郁さんはその僕の質問に驚きの顔を見せた。


 だって、ずっと僕は、見つかる、って言い続けたから。


 この、広い廃工場、僕達の世界の中、時に幾重に重なり、時に砕け、散る硝子片。


 僕達は本当に、この中から、僕達だけのたからものを見つけられるのか?


「郁さん、今まで……今まで、絶対見つかる、って言ったこと……ない、ですよ」


 一緒に頑張ろう、見つけましょう。きっと、大丈夫。私達なら……


 そんな、お飾りの言葉は要らない…………僕が求めているのは、そんな言葉じゃない。


「私は」


 郁さんが何か言おうとしたけれど、それを遮り語り続ける。


「郁さんは、本当に見つかると思っているんですか?努力していますか。郁さんお金持ちの家でしょう。いいですよね、恵まれて。のうのうと生き続けて、僕みたいな、人生苦労している人が居たら、ここぞとばかりに漬け込んで、横から、協力しますよ、って風吹かせて。それだけで、生きていけるんですから…………」


 僕は、何を言っているんだ。


「普段家に居ない癖に帰ったら殴る親とか、不登校になっても心配しない学校、学校に友達のはずの生徒が来なくなったら笑って、建前の「大丈夫か」って言葉を並べるクラスメイト……そんな人、周りに居ましたか。居ないですよね?僕みたいな、恵まれていない人間と、まるで同じですみたいに振舞って」


 違う、こんなこと、言うはずじゃなかった。


 違います、郁さん。違う、違う。


 郁さんは、眩しいから。


「僕と貴女は違う…………」


 決定的に違う、何かを越えて、決定的な何かが郁さんと同じだから。


 だから、郁さんと居るんだ。 


 郁さんと居れば、きっと見つかるなにかを。


 僕は探している。




「どうせこれから、貴女は何も考えず、ずっと生きていくんだ」




 違う、こんな事が言いたいんじゃない。


 郁さん、あなたは。


「惑星は、何百年の時を経ても恒星に変わることはないんです。僕は、惑星だ。一人では何も出来ない、愚かな惑星」


 郁さんは、恒星。


 僕の進む道を照らし、救ってくれる恒星。


「違いますか」


 その言葉に、郁さんは答えない。


 ただ硝子片の散らばる地面を見つめて、唇を噛んでいる。


「郁さん、答えて下さい」


「私は、恒星じゃない」


 目を伏せたまま、小さく呟く。


 僕にも、聞こえるかどうかという程度のか細い声。


「私は、眩しい人生なんて送れないです。十年、二十年も……幸せに生きる時間は無いですよ、だって……」


 そこで、口を噤つぐんだ。


 郁さんは、儚く笑った。


「今日は先に失礼します」


 そう言うと、踵を返して郁さんは廃工場から出て行った。


 廃工場の入り口の扉を閉める感情の籠らない、ギィィ、という音が、工場内に響き渡った。




 僕は、僕はなんという事を言ってしまったんだ。


 誰が為に、僕は郁さんと居るのか。


 何の為に。


 どうして。


 答えは、出ている。心の中で、僕は気付いている。


 だけれど、それを言ったら僕が負けたみたいで悔しい。


 そもそも、勝負なんて始めから無い。


 僕が勝手に苛ついて、郁さんに酷い言葉を投げかけただけだ……


 ああ、僕は、なんて馬鹿なんだろう。






























『まだ、起きてますか。夜分遅く、すみません』


 パソコンの画面が青白く点灯した。そして一端画面をスリープ状態にした。


 メッセの通知…………郁さんからだ。


『起きてます』


 端的に文章を打ち込む。


 初めの方、郁さんとチャットを始めた頃はまだキーボード入力が遅くて、上手く文章が打てなかった。それどころか、遅い癖をしてタイピングミスがとても多かった。


『今日、言い過ぎました』


 それは、僕の言葉だ。


 郁さんは、


『僕が、言い過ぎました』


『いえ、私が……』


『けど、僕が』


『でも、私があんなこと言わなければ』


 言い合いは終息を知らない。ふ、と郁さんのメッセージが途絶えて、それから、


『じゃあ、私に、星を見せて下さい。そしたら、許してあげます!』


『そんなことでいいんですか?』


『そんなことじゃないです!約束です、あの廃工場から見た、大きな星空を見せて下さいね』


 これは、約束。絶対に、見せてあげよう。二人で、星を見に行こう。




 残り、四日。




「……お、おはようございます」


「はい、おはようございます」


 挨拶をすると、郁さんは笑顔で答えてくれた。話し掛けにくさは、まだ、少しあった。


 暗雲とした雰囲気も、飛んでいく。




「ここに来るの、すっかり日常になりましたね」


 郁さんが掌から赤い雫を零しながら近寄って来た。


「そうですね……今日は絆創膏、持ってきましたよ」


「あ。ありがとうございます」


「やめて下さいよ、そんなの」


 なむなむ、と拝むようなポーズを取って絆創膏を受け取る郁さん。


「あの、星、いつ見に行きますか?」


「そうですね……」


 いつがいいんだろう。


 遅すぎるのも…………。


 早いと、がっついているみたいだ。


 敢えて、七月まで待って天の川、というのもある。


「七月まで待って、天の川、見ませんか?」


「七月…………出来るだけ、早め、じゃ、駄目ですか」


 郁さんの提案は、出来るだけ、早く、だった。


 今は四月。夜桜は綺麗だけれど、街灯で街は明るいし、家庭の事もあるから、郁さんは大丈夫だろうか。


 急な予定とかだと、親御さんが困るのでは。


「じゃあ、一週間後、どうでしょうか」


「いっしゅうかん……もっと、早く、駄目ですか」


「流石に……家の事も、ありますから」


 そうですか、と項垂れる。


 そんなに僕と行きたいと思ってくれていると思うと、嬉しいけれど、何だか申し訳ない。


「じゃあ、一週間後。約束ですからね」


「はい」




 帰り道、薄暗い路地を歩く。


「そういえば、昨日、ネットで見たんですけど」


「何をですか?」


 興味津々、という様に話を待つ。


 郁さんは、僕の話を真剣に聞いてくれる。


 でも、僕は郁さんの事を何も知らない。


 名前が郁さんで、優しいという事しか僕は知らない。


「『月が綺麗ですね』で、『愛しています』っていう意味の言葉、あるじゃないですか」


「あ、ありますね。ロマンチックですよね。確か、夏目漱石さんですよね。その返しが確か……『死んでもいいわ』で、『愛しています』でしたっけ。二葉亭四迷さんの」


 かなり詳しい解説付きで返答された。


 すごく詳しいじゃないですか。


「あれ、違う言葉もあるみたいですよ」


「えっ、そうなんですか。知っているの、教えてくださいよ。凄い、ロマンチックです」


 まさにときめく乙女の表情で僕の言葉を待つ。


「『海が綺麗ですね』で、『私はあなたに溺れています』とか。『明日も晴れるといいですね』で『明日もあなたに笑顔でいて欲しい』とか」


 他にも沢山あるけれど、ここでは省かせて貰おう。


 美しい言葉は無駄な飾りつけでしか無いと過去の僕なら言っていたけれど、今は違う。


「明日も晴れるといいですね、って言わせて下さい」


 明日も、あなたに笑顔で居て欲しい。


「僕も」


 美しい言葉は、想いをときめかせ、輝かせる。


 世界を彩る。


「明日も晴れるといいですね」


「私も、そう思います」




「どうしよう…………晴れるかなぁ」


 丁度一週間後の天気予報。


 その日の気象予報では、雨をさしていた。


「きっと、明日も、一週間後も、晴れる」


 天気予報は、常に予測でしかないから。


 僕が、郁さんが、祈っている。


だから、きっと。


 晴れるハズだ。




 残り、三日。時は、決して止まらない。








「っは……」


 苦しそうに呻く。


 視界がホワイトアウトしそうな程に純白の病室。


 その片隅に置かれたベッドの上に、女性が眠っている。


 苦しそうに呻いている。


 点滴が刺され、とても痛々しい。


 まるで、彼女をベッドに縛り付け、逝かない様にでもするかの様だ。もしくは、どこかへ羽ばたかないために。


 いつ死んでもおかしくない状況でも、必死に生に縋り付く。


 その様は愚かであるようにすら見えるが、その表情は、ただひたすら足搔き続ける少年の様な、静かに生を狩る死に神の様にも思える。


 雨が静かに降る。


 音も立てず。


 その部屋に響くのは、雨粒が葉に当たり砕ける音と、彼女の息遣いのみ。


 死にたくない、生きたいと望む、息遣い。


 しかし、その瞳は確かに何かを捕らえていた。


 窓の外。


 雨音しかしない様に感じる、だが、彼女は何かを待つ様に、誰かを信じる瞳、しかしすこし不安な想いもある瞳で、窓の外を見ている。


 何を、誰を待っているのかは、神も知らぬ事であった。


 これは、何時とも言えぬ、記録。


 翌日も、雨だった。






 空気はじめじめと湿っているが、涼やかで、雲の間から快晴の空が広がっている。


 厚い布地のカーテンを捲り、空を仰ぐ。


 もう十時だから、当然ながら外に、学校に登校する学生の姿は見受けられない。


 今朝もいつも通り、郁さんが来ると思っていた。


【新着メッセージはありません】


 パソコンの通知を確認するけれど、郁さんからのメッセは来ていない。


 たまに休む事はあったけれど、いつも必ず連絡が入っていた。


 連絡無く郁さんが休むのは、初めての出来事だ。


『今日は廃工場来れないですか?大丈夫ですか』


 そう連絡を入れておいて、僕はいつもの制服はクローゼットの中にしまい、無地のスニーカー、ジーンズ、黒のパーカーを着た。


 まるで不審者ルックスだが、コンビニに行くだけだし、問題無いだろう。


 コンビニは、僕の家から、廃工場よりも遠い場所にある。




 一人で見る廃工場は、自棄やけに静寂に包まれていた。


 どうしようもなくその静けさが息苦しく、すぐに工場を出た。


 郁さんの居ない廃工場は、どれだけ埃が日を浴びて輝いても、どれだけ硝子片がきらめいても、寂しい世界でしかなかった。


 その輝きは、僕を日の光の元に晒し、曝すのみ。




外に出て、外から廃工場を見つめた。


外から見れば、只の今にも壊れそうな只の、廃工場でしか無くて、僕達二人の世界が中に広がっているとはとても思えなかった。


「危ないよ、そこから離れなさい」


 ふと、近くから声が掛かった。


 工事の作業員の装い。白い髭をさすりながら近付いて来た。


 髭よりも白いヘルメットを脇に抱えている。もう片方の手は、三重に重ねた赤のカラーコーンを抱えている。


「ここ、なんの工場だったんですか?」


 今まで毎日通いながら、なんの工場かは知らなかった。


「さあねぇ。ただ、」




「もうここは取り壊すんだよ」




………………!


「なんで、取り壊すんですか」


「子供が入って怪我をするしね、治安も悪くなるんだ。だからだよ。まあ、確かにこんな廃工場が近くにあったら、幼い儂だったら間違いなく秘密基地にしていたかもしれないがね」


 作業員のお爺さんの声が、遠くなる。


 ここが、壊される。


 考えてみれば、当たり前だ。


 廃工場を残すメリットは何も無い癖に、デメリットで溢れ返っている。


「さあ、離れて、危ないよ」


「工事、は、いつから」


「あぁ、そうだな、後二日後かなぁ」


「あ、りがとう、ございます」


「どうしたんだい、顔色が悪いよ」


「いえ、大丈夫です……」


 ふらふらと歩き出す。


 お爺さんの心配する声が遠くに聞こえるけれど、耳に入ってきても、頭に上手く入り込まない。


 僕達の、世界が。




 崩れ落ちていく。






『郁さん、工場が、取り壊されるそうです』


 やはり家に帰っても、メッセージは届いていなかった。


 なんどもメッセージボックスを同期するけれど、新しいメッセージが来たという通知は無い。


 そもそも自動同期にしているのだから、当然ともいえる。




 茜色に染まる空。


 よく、血塗られた空だとか言う人がいるけれど、本当にそうだと思った。


 空を覆う雲の隙間から光が差し、そして雲全体、空全体を茜色に染める。




 何故郁さんに、廃工場を教えてあげたのかは分からない。


 運命と言えない事も無い。


 それくらい、なんとなく。


 初めて郁さんと出会った時から、郁さんは何かを探している。


 そうかも知れないですね、と否定とも肯定とも取れない言葉で返答された。


 でも、すとん、と胸に落ちた。


 もしかしたら、僕も何かを探していたのかも知れない。


 『探している』という事実を探していたのかも知れない。


 『探しているという事実を探していた』という事実を探していたのかも知れない。


 結局のところ、今もそれは分からないままだ。


「ここが、私の新しい世界」


 初めて工場に入ったのも、郁さんと出会った時だった。


 いつも、古い、治安が悪くなって僕が殴られる原因の一部にしかならない、不必要な存在でしか無い。


 だから、その廃工場を世界の一部として捉えたことなど、一度たりとも無かった。


 だけど、違った。


 煌めく埃も、窓から差す光も、歩を進める度に音を立て煌めく硝子片も。


 世界の一部、いや、僕の望む世界そのものだった。


 郁さんと居る時間は楽しかった。今だって、変わらず、いや、それ以上に幸せな時だ。


 家でカップラーメンを食べて、殴られて、意味も無い学校に通ってまた殴られて。


 組み敷かれた人生のレールは、もう無茶苦茶で、あまりにも非情だった。


 だからそれを定められた神さえも憎かった。


 だけど、それは違ったみたいだ。


 ただの気まぐれだとしても、僕と郁さんが出会ったという事実は変わらないから。


 そんな今までの生活とは、比べ物にならないくらい。




 幸せだった。




 ずっと、探していたもの。


 今の僕なら、気付けるはずのもの。


 それは、きっと・




 のこり、二日…………。時とは必ず、最後がある。終焉の鐘を響かせる。






『新着メッセージはありません』


 メッセージは結局来ていない。


 どうしたのだろうか……


 僕は、どうするべきか。


 このまま待つのか。迎えに行くのか。


「…………」


 心の中で、僕はきっと決意を固めている。


 ただ、それに気付きたく無いだけだ。


 世界が、壊される。なのに、黙ってる奴が居るか。


 約束だって、守れなくなる。


 始めから、そうだ。迷惑なんて考えているなら、こんな事、そもそも考えない。


 どうやら、悪い様に親の無神経さと、自由さを受け継いだらしい。


 言い様によっては、良い様に、だけれど。


 本当に最後にならないと、気付けないし、動けない。


 その癖最後になったら一番最後まで揉める。そんなの、ただの面倒で邪魔な奴だ。


 まだ、間に合うかは分からない。


 まだ、最後かどうかは分からない。


 でも、これを『最後』にしないためのチャンスを掴めるのは、きっとこれが最後だ。


愚かで、無神経で、滅茶苦茶で、自分勝手で。


でも、郁さんはいつも笑っていたから。


僕に、笑ってくれたから。




「…………」


 ナップザックにスマホと財布、定期券、絆創膏、家の鍵を入れた。荷物は最低限。


 家の鍵は、僕の持つこの一つだけだ。


 だから、何時帰って来ても良い様に、ずっと鍵を開けていた。


 鍵を閉めるのは、何時振りだろう。


 きっと、僕が帰ってきたら死ぬ程罵倒されて、死ぬ程殴られる。


 でも、構わない。


「…………はぁ、構わないとか思ってる辺り、僕おかしいよなぁ」


 一人、嘆息して歩き出した。




 ピッ、と駅の改札の音。


 駅にほぼ人はおらず、ホームには、僕の足音が響くのみだ。


 それもそのはず、丁度通勤時間帯を過ぎた所なのだから。


『二番線に電車が参ります』


 構内にアナウンスが響く。


 続いて、ファンファンファン、と電車が訪れる音がする。


 僕の髪を靡なびかせて、ゆっくりとスピードを落としていく。


 そして、僕の前で止まった。


 正確には元々定められた場所に止まって、僕がその定められた場所に居ただけだが。


 つまり僕の為にこの電車は止まった訳では無いという事が言いたいのだ。


 自分中心に世界が回っていたと勘違いしていた幼い頃が懐かしい。


 幸せにも思える勘違いだ。




 電車に揺られる。


 郁さんとのチャットに上げられた写真の位置情報を見たら、知らない街の病院だった。


 僕が普通に学校に行っていて、パソコンに詳しくなかったら、これすら分からなかった。


 初めてと言える程だが、不登校で良かったと思った。


 吊革を持つ手が疲れて、痺れてくる。


 血が流れにくいからだろうか。




『次は……駅、……駅。お降りの方は、右手の扉からお降りください』


 ぞろぞろと人がいなくなる。


 大きな駅なだけに、乗降者が多い。


 結果的に、電車に乗っている人は少なくなった。


 ようやく椅子に座れた。


 窓の外の景色は、ほんの少し移動しただけなのに随分違う物になっている。


 ほんの少し緑が増えている。


 それだけで、他は特に違いは無かった。


 残り、一日。人は、一人では生きてはいけない。けれど、一人を望む。




 夜通し電車に乗った。ようやく目的の場所へ行ける駅に辿り着いた。


 変わらない景色、少し緑が多いだけ。


 とんっ、と地面に足をつける。


 長い間揺られただけに、少し酔った。


 お陰で、地面が揺れているように感じる。


 水を一口飲む。まるでその代わりとでも言う様に、一筋汗が流れた。




 五分程度休んだらすっかり治った。


 元々酔いやすい体質では無いから。


「よし……行くか」


 勢いよく、足を踏み出す。そして、歩き出す。




 もしかしたら、その病院に郁さんは居ないかも知れない。


 それでも、今の僕に分かる事はこれしか無いから。


 途中、水がなくなったので、変わりに僕の好きな清涼飲料水を自販機で買った。


 けれど、どうしてか味がしなくて、これだったらただの水を買えば良かったと後悔した。


 きっと、心にぽっかりと穴があるから。


 だから、味も、匂いも、なにもしない。


 僕は基本的に、何事にも無関心な事が多かった。


 だって、何かに興味を持っても、誰かに砕かれるか、奪われるだけだったから。


 だから、僕自身、郁さんを探すと決意した時は驚いた。


 気付かぬ内に、郁さんといるのが当たり前になっていた。毎日挨拶をして、ご飯を一緒に食べて、帰ったらチャットをして、また明日と言って、たまに、違う場所に行く。


 そしていつも通り、また明日、と言葉を交わす。


 それが、普通になっていた。


 不幸だと自分を呪うのはやめて、毎日が楽しいのだと思えるようになった。


 それは、全て。




 郁さんが居たから。一人じゃなかったから。






 早く、速く、はやく。


 早く郁さんに会いたい。


 会って、そして、月が綺麗だと、言いたい。


 雨が止まなくても、いい。


 もう少し傍に居たいです。


 明日は晴れるか話して、一緒に笑おう。


 明日の僕の想いは晴れますか。




『明日も晴れるといいですね』


『ええ、きっと』






 明日もあなたに笑顔で居てほしい。ただ、それだけだから。








「郁さん」


 貴女が居るから。


 近付けば、鈍いクリーム色の病院の壁が近付いてくる。


 玄関口へ向かう。




 一瞬事務の人に話し掛けようと思ったが、やめた。


 恐らく個人情報云々と言われて、教えてくれないだろうし。


 そのままカウンターを無視して、病室へ向かう。


 こちらを看護師が見た時は真面目にハラハラした。




 どこの病室か全くわからない。


 一先ず、順番に病室のネームプレートを見ていく。


 『藤井ふじい洸こう』『蓮井はすい雅ま弓ゆみ』『真島……』等々、郁さんの名前は見つからない。


 中には、こんな病室もあった。


 ネームプレートはあったけれど、スライド式の扉は開け放たれて、中には真っ白の病室が広がるだけの病室。


 少しだけ覗いたら、花束が添えられていた。


 この部屋に入室していた人が亡くなられたのだろう。


 静かに、手を合わせた……




 『紗さ枝え木き郁ふみ』という名前の人もいた。


 漢字が、いくさんと一緒だった。


 中に居たのはただ静かに虚空を見つめるお婆さんで、僕の姿を見ると、にこっ、と笑いかけてくれた。


 痩せ細っていた。


 その笑顔に笑い掛けて、病室を出る。


 ……その背から、無機質な、命の終わりを告げる音がしたのは、気のせいだと思いたい。


 お婆さんは、直前まで僕に笑い掛けてくれたから、気のせいに違いない。


 人の命は簡単に終わってしまうのだと、気付きたくは無いから…………








『大空おおぞら郁いく』


 そう、ネームプレートに書かれている。


 こんこん、とドアを叩く。


「郁さん」


「…………入ってこないで、下さい」


 中から、くぐもった声がする。


「入ります」


「やめて下さい」


 それは今まで僕の聞いた事の無い、拒絶の声色。


 だけれど、それを無視して、勢いよく扉を開け放つ。


「数日振りですね」


「…………ええ。入ってこないで、って言ったのに」


 郁さんは、赤く腫れた目元のまま微笑を浮かべて、小さく頷く。


 中には、純白のベッドに横たわる郁さんが居た。


 腕には点滴の針を刺されている。


 他にも色々な機械に繋がれて、痛々しいと言わざるを得なかった。


「郁さん、なんで」


 病院に居るんですか。


「……もう私は死にます」


 やっと口を開く。


 だが、その言葉は、予想していないものだった。想像を、理性が遮さえぎっていたのだ。


「病気です」


 淡々と告げられたその言葉を、上手く理解出来ずにいる自分がいる。


「病気って……数日前まで、普通に、工場に来てたじゃないですか。廃工場、もう取り壊しになっちゃうんですよ。だから」


「星、見に行けませんね」


 僕の言葉を遮る形で発せられた言葉は、これ以上考えたく無いと思考停止したものだった。


「約束、絶対、って」


「はい」


「言った、じゃないですか」


「ええ」


「約束守れないんですか」


「…………はい」


 どうして。


 そうやって聞きたかったけれど、言葉が出てこない。


 だって、理由は分かっているから。


 情けない。


 何も言えない癖に、涙だけ、零こぼれるから。


「泣かないで下さい……」


 そう言って、涙を拭ってくれた。


 悲しいのは、郁さんの方なのに。


 僕が泣いたから。






「郁さん、これから、星を見に行きませんか」


「今から?」


「はい、今から」


 今は夕日で空全体が茜色に染まっている。


 もうまもなくすれば、一番星が出てくるだろう。


「私、もう死ぬんですよ……不可能としか言いようがないです」


「まだ、じゃないですか」


「…」


「たからものは見つかってないし、星は見てないし、工場はもうなくなるかもしれない。もう、今が全て最後になるかもしれない」


 後悔だけは、したくない。時は、一瞬で過ぎていく。僕達を『今』に取り残して。


 だから、この場所に僕はいる。諦めない。終わらせない。


 郁さんともっと居たいから、僕は決意する。


「最後に、星を見ましょう。そして、その後、これが最後じゃないって、言いましょう」


 まだ郁さんは生きるのだと。二人で。


 たからものは、きっと。


 全て、これが最後かもしれない。


 二人の始まりの場所へ帰ろう。


「僕達二人の世界へ、帰りませんか。今から、全力で」




「………………………………はい!」




 生憎あいにく郁さんの部屋は一階だった。


 つまりこれは、窓からばれずに出ろという神様のお達しだろう。


「郁さん、来てください」


「は、はい!」


 ふわっ、と飛び降りる。


 僕の腕の中へ落ちてくる。とても、軽かった。


「じゃあ、行きましょうか」




 二人で、夜の街を駆けた。


 夜風が気持ちいい。


 びゅうびゅうと耳元で呻る風を押しのけて、世界へ還る。


 僕達の世界へ帰る。


「郁さん」


「何ですかー!」


 耳元の風が煩い。


「夕日、綺麗ですね」


 あなたの本当の気持ちが知りたい。


「ええ。今日はとても幸せです」


 あなたと会えて、幸せです。




 そろそろ、日が沈む。




「郁さん、一番星が見えます」


「あの、恒星と、惑星の話……覚えていますか」


 覚えている。


 自ら光る恒星と、恒星の光を反射して光る惑星。


「あの一番星は、恒星でしょう。今、あの恒星は独りぼっちの光です」


 だけど、と続ける。


「惑星は、一番手になれなくても、誰かの横で真っ直ぐに生きる、優しい光だと思います」


 私は恒星じゃない、そう郁さんは言った。


「惑星でよかった。最後まで、独りぼっちでは、無いですから」


 だが、そう言った途端郁さんは荒い息を吐き、立ち止まった。


「どうしました!」


「いえ、その、疲れただけ、ですから」




「ほ、本当に申し訳ないですよ!」


「いえ、一刻も早く帰りたいだけです。僕はそんなに優しくはないです……」


 僕は郁さんを背負い走っていた。


 僕も体力馬鹿な訳では無いけれど、郁さんよりはあるはずだ。


 郁さんの身体は妙に軽くて、少し風が吹いたら飛んでいきそうな程に儚くか弱かった。






「郁さん!着きました」


 郁さんをおろす。


 すっかり辺りは暗くなっているけれど、僕達の世界はただ静かに、寡黙に聳えていた。


 もうすぐに取り壊されるとは思いたくない。


 相変わらず立て付けの悪いドアを開ける。


 夜に訪れるのは初めてだ。


 本当に、暗かった。


「っ……」


 郁さんは、かなり苦しそうで、息も荒い。


 考えたくは、ないけれど。


「空なら、寝て見たいですよね」


「いえ、座って見ましょう」


 そう言うと、硝子片の散らばる工場の地面に直接座った。


 パキパキ、と硝子片が更に細かく砕ける。


 郁さんと背を合わせるように僕も座る。


 空に満点に輝く星が、僕らを見つめる。


「小さい頃は」


 星を指さす。


 僕の指先には、周りの星より少し光の弱い星。


「星、嫌いだったんです」


「そ、なん、ですか?きれい、ですよ」


 苦しそうにしながらも、話を聞いてくれる。


「僕の涙を照らすし、一人になりたくても、何処までも追いかけてくるから」


「そ、れは」


 一度言葉を切って、


「一人は、寂しい、か、ら。二人、で、いれば、大丈夫、だよ、て、言ってくれてる」


 ゆっくりと郁さんも腕を持ち上げ、僕と同じ星を指差す。


「優しい、光、ですね」


 僕達は、同じ景色を見ている。


 きっと、同じ事を考えている。


 ずっと、二人で居れればいいのに。死にたくない、壊されたくない。


 でも、終わりは来る、いつか、必ず。


 世界が、終わっていく。


「月が、綺麗ですね」


 愛しています。


 月は優しく周りを照らす。


 だから、月の周りには星が少なく見える。


 それは、月の光が、弱い惑星の光を覆い隠してしまうからだ。けれど、そうじゃなくて、月は、濡れた頬を照らして励まして、一人じゃないと教えてくれる。


「死んでもいいわ」


 私も、愛しています。


「やめて下さいよ郁さん。それ、冗談に聞こえないです」


 返事は、無い。


 もっと、伝えたい言葉は一杯あるんだ。


 月が綺麗、そして星も綺麗で、明日は晴れだと、二人で笑いたい。


 愛しています。あなたは僕の想いに気付かない振りをする。明日も僕達は笑顔でしょう。


「たからものは、さがしものは」


 もう本当はとっくに見つかっていた。


 でも、気付けなかった。


 失ってから、気付く。


 人は愚かだ。


 失って初めて、その存在に気付かされるのだから。


 硝子片を拾い上げる。


 硝子は反射して輝くけれど、これはきっと、硝子自身の光ではない。


 でも、それでいいのかもしれない。


 誰かが居て、僕が居るから。


 二人で硝子片を拾う時間に意味は在ったのかと、誰かに聞かれても。


 僕達が探していたのは、煌めく、周りとは違う、美しい硝子片じゃない。




 僕達は『二人でずっと居られる時間』を探していた。




 その時間が愛おしかった。


 会話も、視線も、何も無くても、二人で探した時間は、たからものは。




 確かに僕と郁さんの間に、存在した。






 それが、僕達のさがしもの。






 僕は、静かに瞳を閉じた。


 空には、優しく煌めく星が、満天に広がっていた。




 ***




 何故だろう。


 僕は、いつまでも深い海の底で、眠っていたい気分なんだ。


 どんなに優しい言葉も、切ない言葉も、痛い言葉も。全部全部忘れて、眠っていたい気分なんだよ。


…………あなたのことも忘れてしまいたい。


 あなたが、誰だったかすら分からない癖に、忘れてしまった癖に、そんなことを願っている。


 満天の星。


 風に靡く、ワンピース。鴉よりも黒い髪。


 それだけは、分かるんだ。


 いつまでも、いつまでも、それだけが、脳裏を過ぎって。




 でも、どんなにそんなことを思ったところで、朝は来る。


 僕は、制服を着て、朝食を食べて、何かが欠如しているような気がしながら、電車に乗って、学校へ行く。


 いやだけど、人の命は簡単に終わるのだと、なんとなく、知っていた。


 だから、毎日を懸命に過ごすのだ。


 ぽっかりと心に穴があることに気付きながら。


 でも、それは、きっと、正しいことだと分かっている。


 大切ななにかを探している。


 それは目に見えないと知っている。


 だから、手を伸ばして、伸ばして、伸ばした先にある、大切なものを。


 僕は。


 知っている。


「郁さん」


 僕は、名前を呼んだ。


 大切な名前を。


 時も、見た目も、声も。年齢も。


 変わってしまっても。


 女性が振り返る。


 僕に、優しく笑い掛ける。


 お久し振りです、なんて言いながら。






 共に過ごした時間は、消えないから。




 変わらない、たからものがあるから。


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星の僕 @ajisawa-0410

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