6

 重い足を動かして改札を出た。

 住宅街にあるこの駅は改札がひとつしかない。駅の裏側にある自宅に帰るには一度駅舎を出てから屋根付きの自由通路を通る。

 いつもは疎らでも人がいるのに、終電で帰路に着いた今日は通路には誰もいない。しんと静まり返った通路に、自分の足音だけが響くと余計に虚しさが増した。

 途中、立ち止まって、通路の小さな窓から空を見た。切り取られた小さな空には、こんなに狭いのにきちんと月と星が見えていた。

 いつぶりだろうか、空を見上げたのは。久しぶりに見た夜空がとても綺麗に見えて、私はひとつため息をついた。

 こんなに綺麗な空の下で、ボロボロの私。本当に、何をしているのだろう。


 その時、何か聞こえた気がした。先程のぼってきた階段の方を見たけれど、誰もいない。人の声のようだけれども、気のせいかもしれない。疲れているからかな、なんて思いながらまたひとつため息をついて、歩き出そうとした。


「新井さーん」


 今度ははっきりと、しかも、私を呼ぶ声が聞こえた。声の聞こえた方に目をやると、会社の後輩の安田くんが大きく手を振りながら階段を駆け上がってくる。その姿に驚きながら、立ち止まった。そんな私を見ると、彼は嬉しそうに駆け寄ってきた。息を切らして、額にはうっすらと汗を滲ませて。


「どうしたの?」


 なぜこんなところに安田くんがいるのかわからなくて、聞いてみた。彼の最寄り駅は、私より2つほど先だったはずだから。

 安田くんは慌ててスーツのポケットに手を入れて、何かを握りしめて私の目の前につき出した。


「あの、これ、渡したくて」


 ハンカチだった。薄紅色と呼ぶに相応しい、優しい色合いの、レースが付いたハンカチ。けれど、見覚えの無いそれは私のではない。仮に私がハンカチを落としていたり、会社に忘れていたとしても、次に会社で会った時でいいし、なんならデスクの上に置いておいてくれたらいいのに。

 ますますわからなくて、首をかしげながらまたたずねた。


「これが、どうかしたの?」


 私の言葉に、安田くんはハッとしたような顔を見せてから、慌てたように答えた。


「あの、新井さんのハンカチ、俺、前にだめにしちゃったじゃないですか。だから、なんです、けど…」


 最後の方はとても小さな声でモゴモゴしていた。


 そういえばそんなこともあった。

 あれは、安田くんが入社してすぐのことだった気がする。まだ夏というほど暑くもなかったのに、緊張してのぼせてしまったのか鼻血が出てしまった彼に、持っていたハンカチを渡したことがあった。

 その時も申し訳なさそうにあたふたしていたから、気にしなくてもいいよと伝えたし、その後きちんと謝罪とお礼を言われて、それで終わったものだと思っていたのに。

 それに。


 安田くんは背が高い。学生の頃は運動部に所属していたらしく、体つきもしっかりとしている。そんな、私からしたら大きな大人の男性が、慌てて小さくなってモゴモゴしている様を目の前にして、なんだかおかしくて。


「わざわざ? 」


 クスクス笑いながらたずねた。

 一拍おいて、今度は困ったように眉が下がった。コロコロ表情がかわるな、なんて思って見つめていると、彼は小さく息を吸った。


「ずっと、渡そうと思っていたんです。だからずっと、毎日、ポケットに入れていて。でも、タイミングがわからなくて」


 ますます眉を下げる安田くん。それは完全に、カタカナの『ハ』の字のようで。その姿がなんだか少し、可愛く思えた。


「そんなの、あの時も言ったけど気にしなくてよかったのに。わざわざありがとうね。でも、今ので電車無くなっちゃったよ?」


 悪い癖だ。

 後輩にカッコ悪い姿は見せられないと思ってしまった。いつもの頼れる先輩を演じながら精いっぱい微笑んだ。そんな私を見て、安田くんはまだ眉を下げたまま。


「いいんです、そんなの。本当は、それだけじゃないんで」


 安田くんの言葉を聞いても、何のことかまったくわからないし、思いあたることも無い。

 他に何かあったっけ? 安田くんが終電を逃してまで私を追いかけてきて、伝えたいこと? 全然わからない。

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