第6話 新米の新妹は凶器を隠し持つ

 私が知っている海凪ちゃんのことを少し話そうと思う。

 私というのはパパの妻であり大河の母であり、いまでは海凪ちゃんの母でもある、まだまだ若い二十八歳のあくつ美和みわのことである。


 鯖読み過ぎ? 知るかー! 心は二十八歳、だから問題なし!

 今どきの流行とか調べて、タピったり、お洒落なカフェとか行って大河と同い年くらいの子たちに痛い目で見られたりするけれど、だから何ですか?

 私だって渋谷で写真を撮ってスノウで加工したり、インスタにストーリーを上げたりしたり、とにかくキャピキャピしたいんだよ……おばさんだって別にいいじゃない……。


 ちょっと話が逸れたけど、私が話す海凪ちゃんのことというのは、あの子がもつ凶器のことだ。

 凶器というのはもちろん比喩なのだけど、その凶器は人類を滅ぼす可能性すら含んでいる。

 あれはヤバイ。ヤバイしか言葉がでない。

 五十年生きて培った語彙力を無くすほどの凶器。それすなわち、あらゆる人間を射止めるであろうあの上目遣いのことで。



 これは私が海凪ちゃんにオムライスの作り方を初めて教えようというときのこと。

 料理をしたことがないという海凪ちゃんにまず教えたのは包丁の扱い方だった。

 小さくて柔らかい、ぷにぷにした手を私の肌荒れしたおばさんくさい手で添えてあげながら一緒にチキンライスに混ぜる野菜を切っていく。

 人参、しいたけ、キャベツ、そして玉ねぎ。

 ベタな話だけど、その玉ねぎを切っていたときに手に握る包丁以外の凶器が顔を出した。


「美和さん~、涙が出てきました~」

「どれどれー? 拭いてあげるよー」

「お願いします~」


 私は一旦包丁をまな板の上に置き、台所に常備してあるティッシュを数枚手に取ると、


「ちょっと上向いてー」

「こうですか~?」

「そうそうー」


 そう言って私は海凪ちゃんが抑える目尻に溜まった涙を拭いてあげる。

 ここまでは良かったのだ。だけど私が心臓を貫かれたのはこの後で、


「はい、拭けたよー」


 私のその言葉を合図に海凪ちゃんは目を開け、凶器を丸出しにして、


「ありがとうございます~!」


 穢れを知らない、琥珀のような瞳。

 ちょっぴり長い、小鹿のような睫毛。

 涙が溜まっていたからか、あどけなさをも共に光を反射させる目尻。

 そして何よりも、健気に上を向いて真っすぐ射抜いてくる純粋な視線!


 私はキュン死した。


 可愛すぎるでしょー!?


 私が穴の開いた胸を抑えると海凪ちゃんは首を傾げて、


「美和さん? だいじょうぶですか?」


 ダメデス、ゼンゼンダメデス。

 イマスグキュウキュウシャヲ。



 一度刺されてしまえば、その凶器が抜けることはなかった。

 料理を教える時の態勢というのは、どう足掻いても小さな海凪ちゃんの背後から私が手を貸す構図になる。

 つまり、海凪ちゃんが私の顔を見る時は天井を見るように首を上げるということで。

 すなわち、その度に私は追い打ちをかけるようにザックザクに刻まれるということで。


 私は海凪ちゃんにオムライスの作り方を教えている期間、鼻にティッシュを詰めていなかったときは一秒たりともない。三箱はティッシュ箱を潰した。

 もはや五十代のおばさんの体には噴き出る血など流れていなかった。


 女の私でこんなにも心を奪われてしまうのなら、男の人ならどうなってしまうのだろう。そう思った私は、海凪ちゃんに上手に出来たオムライスをパパに食べてもらうようお願いしてみて、とちょっと罪な頼みをしてみた。


 すると快く了承してくれた海凪ちゃんは、丁度仕事帰りでネクタイを外そうとしているパパのところにオムライスを両手にとことこと向かっていき、件の上目遣いで、


「上手に出来たので、食べてもらえませんか……?」


 パパも死んだ。


 というのは流石に洒落にならないのだけど、外したネクタイがパパの言うことを聞かないようで首や肩におよそあり得ない状態で巻き付いていた。

 なんとも末恐ろしい力だと思う。

 パパが私以外の女に動揺するなんて……。本当だったらお説教が始まるところだったのけど、あの凶器の切れ味は私もよく理解した上でけしかけてしまったので罰が悪く、目を瞑った。


 でも、パパが証明してくれた。あの凶器は万人に通用すると。



 ……結局のところ、何が言いたかったのかというと、大河のことが心配なのだ。


 私もパパも海凪ちゃんの凶器にはたじたじだった。年頃の男子高校生である大河があの上目遣いを目の当たりにしたら、それこそ本当に死んでしまうかもしれない。

 それほどの鋭さがあるのだ。


 大河が間違いを犯さないようにと、月一でエロ漫画を通販で買ってそのまま送っているけれど、私の独断と偏見で大人っぽい女性の漫画しか選んでないので、殊海凪ちゃんの凶器に関しては対策になっていないと思う。


 海凪ちゃんはあれを素でやっているのだ。いくら抑えるように言っても、意識してやってるわけじゃないのだからふとあの上目遣いをしてしまうかもしれない。


 私はリビングのソファーで横になり、スマホでメロン○ックスの通販サイトを開く。


「やっぱり妹モノのエロ漫画も送っておこうかな」


 少しでも耐性がついてくれることを祈って私は、メロンポイントを使い果たして小さな女の子の絵が表紙のエロ漫画を大河の住所宛に送った。


『私の名前と一文字違いの女の子は、凶器をどこかに潜めている』とメッセージを添えて。



 ~~~


「おにいちゃん、お願いっ♡」


「「ぐはっ……」」


 俺は死んだ。いや、俺たちは死んだ。

 海凪のことを小さな女の子と侮っていたのかもしれない。

 まさか、俺が。この俺が年上のお姉さん以外に……。



 何が起きたか血みどろになりながら説明すると、三十分前のことからだ。



 稀代のお風呂好きであるらしい海凪は、顔を真っ赤にして湯から上がってきた。

 どう見てものぼせていたので、冷たい水で絞ったタオルを渡してやろうとすると、海凪はそれを手にする前に宅急便で送られてきた服に着替えてバタンキュー。

 俺は火照った海凪をベッドに運んでから、おでこにタオルを乗せてやる。


 とりあえず海凪をゆっくりさせておくと、俺は考えに耽っていた。

 主に部屋の面積のことだ。

 海凪の荷物はそこまで多くなかったものの、やはりどう考えても二人で生活するには六畳一間の部屋は狭すぎる。

 それに、海凪は女の子だ。これから先、同じベッドで寝るわけにはいかないし、だからと言って俺が毎日床で寝るのは大分キツイものがある。海凪だって家主を床に寝かせるのは気が引けてしまうだろうし。


 となれば、部屋を掃除するほかなくて。

 しかし、ご存じの通り俺には掃除能力というものが備わっていない。ベッドで休んでる海凪はもってのほかだ。どうしたものかと思案していると、俺は閃いた。


 ──片付けられないのなら捨ててしまえばいいじゃないと。


 かのエロゲに出てくるマリーさんも言っていたじゃないか。


 ──ヤったことがないのなら犯してしまえばいいじゃないと。


 そのセリフが出てくるエロゲをプレイしていたときはなんて胸糞悪いことを言うんだと思ったけれど、案外理にかなっているのかもしれない。


 ……んなわけはないだろ。あのゲームは批評サイトでそういう性癖の人にすらボロカスに叩かれてた歴代屈指のクソゲーだったのだから。


 だがクソゲーはともかく、捨ててしまうというのはこの状況においては窮すれば通ずだ。

 俺は散乱している服の中からあまり着ないものを捨てていった。母さんは季節が変わるごとに新しい服を送ってくれていたのだけど、思えば長期休み以外はほとんど制服を着ているのだから、部屋着とその季節に合った服が二、三着あれば事足りるのだ。

 せっかく見繕ってくれた母さんには悪いと思うけれど、これも海凪と暮らすのなら必要なことなのだ。許して欲しい。



「ふう」


 最初の一着を捨ててしまえば割と次々と続いていくもので、山のように重なっていた服たちは気に入ってる数枚の服を除いてゴミ袋の中だ。

 どうやら俺の部屋はほとんどが服で形成されていたようで、思った以上に広くなった。意外と六畳は広かったらしい。自ら埋め立ててしまっていただけで。

 あとは昨日必死の思いで片付けたエロゲとエロ漫画をお隣に返しにいけば、余裕をもってもう一人寝るスペースは確保できるだろうと、隅っこに追いやっていた段ボールを持ち上げると、


「どこに行くんですか?」


 赤みが引いたようで海凪がベッドから降りながら訊いてくる。


「お隣に返しに行くんだ。もともと借りてたものだからな」

「本当にいいんですか? 男の人には必要なものだったんじゃ……」

「そりゃ何度かお世話にはなったけど、別に俺は毎日のようにドピュってるわけじゃないし、海凪がいるのにエロいもん部屋に置いとくわけにもいかないだろ」

「あたしのことは気にしなくていいのに」

「だったら今からでもお帰りいただいてもよろしいか? ……ってのは冗談だけど、気にするなってのは無理な話で、本当に暇つぶしくらい程度にしかそういうことはしてなかったからむしろ海凪が気にするな」


 まあ実際は毎日のようにドピュってたし、昨日も海凪が来る直前までエロゲでシコシコしようと思ってたけどな。

 だけど、海凪がいる前でまでオナるような甲斐性は持ち合わせてないし、本当に暇だからシコるか、くらいの感覚ではあったから死活問題というわけではないのだ。

 ……事実だからな?


「……分かりました。大河さんがそう言ってくれるならあたしも気にしないことにします」

「そうしてくれ」


 海凪は寝ていたときにシワになってしまっていた服の裾を伸ばすと、額に乗せといてやったタオルを片手に持ち、


「これ、ありがとうございます。洗濯籠に入れておけばいいですか?」

「ああ」


 そうやって礼を言ってくれる海凪は、脱衣所にある籠の取っ手にタオルを掛けると、


「じゃあ行きましょう」

「は?」

「お隣さんのところに行くんですよね?」

「そうだけど、俺一人で十分だぞ?」

「そういうわけにはいきません。あたしにとっても今日からお隣さんなんですから」

「いや、ダメだ。あそこは危険だ」


 嘘ではない。あそこは海凪のような小さな女の子は立ち入り禁止だ。

 なにせ、俺指定要警戒ロリコンの住まいなのだから。

 海凪があの部屋を訪ねるのは、ウサギがライオンのもとに駆けていくようなものである。


「むー。挨拶くらいしておきたいです」


 ちょっと拗ねてるご様子の海凪。

 俺は出来たばかりの妹のためを思って言っているというのに……。

 まあでも昨日デリヘルのお姉さんとよろしくやってたみたいだし、さすがに法を犯すようなことをするような人でもないかと俺は、


「じゃあ行くだけ行くか。って言っても本当にエロいもん返しに行くだけだぞ?」

「だいじょうぶです。あたしも挨拶したいだけですから」




 海凪の言葉を最後に、俺たちはダンボールをもってお隣の二〇一号室を訪ねたのだけど、


「うぇえ!? 昨日の可愛い子ちゃんじゃん!? どしたの!? 本当に誘拐しちゃったの!?」


 うん、やっぱり連れてこなければよかった。

 寝起きだったのか、ボサボサの茶髪を搔きながら出てきたお隣の大学生──麻倉あさくらこうはエロゲを貸してくれるいい人ではあるのだけど、なんというかその……面倒くさいのだ。

 声がデカいし。そのせいで誘拐の単語に反応した近所の面々がこぞって窓から覗いてくるし。この様だけでなんとなく分かるだろう?


 こういうのはまともに反応してはいけないと俺は、


「エロゲ全部返しに来たから」

「なんでまた」

「色々あってな。もともといつか返す予定ではあったから」

「へー、まあいいけど」


 俺はダンボールをお隣に押し付けると、手を振って、


「じゃ」

「いやいや、待て待て待て」


 腕を掴まれた。やっぱりダルい絡みは続くようだ。


「はあ……何用で?」

「そんなあからさまに嫌そうな顔されると鋼の心を持つ俺でも流石に傷つくぞ……」


 こんなんで傷つくのならそれは鋼の心とは言わない。ただの豆腐メンタルだ。


「嫌そうなんじゃなくて嫌なんだが」

「エロゲ仲間なのに連れないなあ。じゃあ直接聞いちゃおっと」

「……おい」


 お隣は俺の斜め後ろに立つ海凪の顔を覗き込むように玄関の扉から身を乗り出してくる。

 おかげ様で、お隣がまだ手に持っているダンボールの角が俺の頬に当たって痛いことこの上ない。


「君いくつ? どっからきたの?」


 お隣のその言葉に続くのはどう考えても「てかラインやってる?」で確定だ。


「てかライン──、」

「やっててもお隣とは交換しないから」

「なんなんだよ大河ー。今いいとこだったのによー」


 どこがいいとこだったんだよ……。まだ始まってすらねえだろ……。

 俺は苦笑いしながらダンボールを押しのけると、海凪は一歩前に出て言う。


「圷海凪です。大河さんの妹になりにきました。不束者ですがよろしくお願いします」


 海凪はお隣にへりくだる必要などないというのに、丁寧に会釈してみせた。

 お隣は一見あり得るような自己紹介に対して、


「大河の妹ー!? なりにきたー!? この世界はエロゲかぁー!?」


 などと迷惑極まりないボリュームで叫ぶので、近隣の目を避けるためにもとりあえず部屋に上げてもらうことにした。




 しかし、お隣の部屋がこんなになってるとは思いもしていなかった。

 こんなエロゲキャラの裸が描かれたタペストリーが壁を覆いつくしているなんて。

 最後に来た時はまだパソコンの横にエロゲタワーが出来てるなあ、くらいのものだったのだけど。一体お隣に何があったというのだろうか。この部屋にデリヘルを呼ぶのは気まずくなったりしないのだろうか。

 海凪の教育上悪いからという理由で借りたエロゲとかを返しに来たというのに、これでは元も子もない。


 とはいえ、肝心の海凪がやはりというか恥ずかしがるような素振りも見せないので、もうどうでもいいかと俺はお隣の家に来た時のお決まりのポジションに座る。

 海凪は俺の左隣で、お隣はテーブルを挟んで正面だ。

 お隣が腰を落とす前、ちらっと奥のゴミ箱から生々しい使用済みのゴムが見えた気がしたが、なにも知らなかったことにしよう。


「それでー? どういうことなのかお隣に詳しく教えてみんさい」

「どうもこうも、さっき海凪が言った通りだが」

「またまた~、大河一人っ子って言ってたじゃん。ほんとは誘拐しちゃったんじゃないの~? うりうり~」

「だから妹になりにきたって言ってたろ。大学生になると話も聞けなくなるのか?」


 いや、妹になりにきたっていうワードを理解できないのは分かるのだけど、なぜお隣はこんなにも俺を誘拐犯に仕立て上げようとするのか。本当は俺をポリスメンに突き飛ばしたいだけなんだろ、そうなんだろ?


 気持ち嘆息して俺は、


「それに俺のタイプ、知ってるだろ?」

「そりゃあ大河のお気に召しそうなエロゲを選り抜いてるのは俺だからなあ……ってことはつまり! 俺の為に誘──」

「なわけないだろ」


 俺はお隣が言葉を通す前にピシャリと言った。

 お隣は今にでも海凪のことを食わんとしてしまいそうに、両手の指をタコみたいに気持ち悪く折り曲げして近づいてくるので、俺は魔の手が海凪に及ぶ前にお隣の顔面を掴んで制する。


「じゃあなんだってんだよ。やっぱりわけわかんねえぞ?」

「……そうだな」


 このままずるずる茶番を続けても面倒なだけだと、俺は昨日お隣と出くわした時以降の話をした。




「──ということだ」


 意外にも大人しく耳を傾けてくれたお隣に、俺は話の終わりを告げる。


 目を瞑ったままあぐら姿勢のお隣は、しばしの沈黙のあとまぶたを三分の一くらい開けて、


「──で?」

「……で、とは? 話した通りだけど」

「そうか。つまり君はそういうやつなんだな」

「どういうやつだよ」

「分かるだろ?」

「分からねえから聞いてんだよ」


 お隣は細くしていた目を見開いて、


「大河もロリコンだったんだな!」

「……は?」


 一体どういう思考回路をしていたらそうなるのだろうか。

 俺はありのままを話したというのに。甚だ疑問である。


「だって、そうじゃなかったらおかしいぞ?」

「一応、その心をお聞かせ願おうじゃねえか。一応な」


 するとお隣はテーブルに肘をつき、手で顎を抑えると、


「要約すると、大河は突然やってきた海凪ちゃんをなんやかんやで家に入れてしまったわけだろ?」

「そうだな」

「それで、仕方なしに夜も遅かったから家で寝かせたわけだろ?」

「そうだ」

「朝起きて、とりあえず事情を確認しようと親に電話かけた。そんで返ってきた答えは?」

「海凪との約束だから言えないって」


 ──ピーッ!


「はいそこでーす!」


 お隣はわざわざ唇を抑えて口笛を鳴らす。


「なんだよ……」

「本当に分かってなさそうだけど、考えてもみろよ。見ず知らずの女の子が突然妹になった。理由は謎。親は事情は知ってそうだけど、詳細は教えてもらえない。それでも雰囲気的に何かあるようだから、とりあえず住まわせることにした。だろ?」

「……まあ大方は」


 端的に言ってしまえばお隣の言う通りで、しかしこれといった問題はないと思っていたのだけど、


「俺だったらあり得ないね。百、突っぱねる。いくら俺がロリコンで、海凪ちゃんみたいな可愛い子だったとしても」

「それはお隣が一人暮らしがしたいって理由でここに住んでるからだろ? 俺は別にそうではない」


 お隣の家族関係を俺は知っている。どうやら実家から通える範囲に大学があるのにこうして一人暮らしをしているのは、実家に居場所がないかららしい。お隣は三人兄妹の長男なのだけど、まああの弟と妹と同じ空間にいるのに耐えきれないというのは分からなくもない。なんというか、お隣以上にあの二人は強烈なのだ。

 だから、それにはお隣自身の感情も入り混じっていると思ったのだけど、


「確かに俺はデリヘルを自由に呼べるという理由で一人暮らしがしたかった」

「おい、そっちがメインかよ」

「しかしな、俺のしがらみ全部取っ払ったとしても九十九、突っぱねるね。……これは例えばの話だけど、もし仮にこうしてここにいる海凪ちゃんは実は大河の親が誘拐してきて、バレそうになったから口封じをしておくためにって理由で大河の部屋に送ったのだとしたら? それでも大河は受け入れるのか?」

「……んな馬鹿な話あるわけないだろ」

「例えばの話って言ったろ? 大河の親がそんなことしないのは分かってるし、海凪ちゃんの顔を見ても見当違いなのは重々承知だ。でもな、可能性は決してゼロじゃない」


 なんとなく、お隣の言いたいことは分かる。俺だってちゃんと腑に落ちた上で海凪を住まわせると決めたわけではないのだ。

 だが、だからといって俺のところにわざわざ来るということは何か事情があるわけで、それがどんな事情かも知りもせずに追い返してしまうというのは、いくらか酷なことだとも思う。

 だから俺は母さんの、海凪は確かに俺たちの家族っていう言葉を信じて腹を決めたわけで。

 けれどもお隣は、


「それを分かった上で海凪ちゃんを住まわせるというのなら──」


「──大河は行き過ぎなくらいお人好しだ」


 お人好し、か。

 そんなんじゃないんだけどな。俺は昔の俺が嫌いなだけで。思い出したくもないあのときの俺が嫌いなだけで。それを消し去りたいほど否定しているだけで。


 だから海凪のため……とかいうのは身勝手な俺のただの建前なのだ。

 嫌いな俺の根底にあるどうしても消せない身勝手。

 それをお人好しと言うのなら、お人好しはみな身勝手だ。

 だけどそうじゃないだろ? 

 お人好しというのは心の底から優しさを振りまいたり、お節介を焼くような人のことを言うのだから。

 俺は、ヒロインのことを「どうしても助けたかった」などというカッコいい理由だけで本当に助けてしまうようなエロゲ主人公じゃないのだから。


 だからお隣の言葉は、俺にしてみれば木を見て森を見ずだ。もっとも、俺の奥底など知る由もないお隣からすれば、森に霧がかかっているようなものなのだから当然のことなのだけれど。


 なんて俺がしけた面をしているとお隣は、


「ま、これはただロリコン大学生が余計な口挟んでるだけだ。大河は大河のしたいようにすればいい。海凪ちゃんもいやいや大河の家に来てるわけじゃないんだろ?」


 それに対してずっと黙って話を聞いていた海凪はコクリとする。


「はい。あたしは大河さんの妹になりたかったから来ました」


 お隣は海凪の答えにニカッとして、


「ならおっけーだ」


 グッと親指を立てて見せる。


 その様子から俺は、お隣も事情は分かってくれただろと立ち上がってお暇しようと思ったのだが、


「ちょーっと待て大河」

「なんだ? 海凪のことは分かったろ?」

「そうだな、海凪ちゃんのことは聞いた。だけど俺はまだ使命を果たしていない」

「……使命?」


 キリッとした顔でいうお隣。その顔からもう嫌な予感しかしないのだけど……。


「そうだ。俺はまだ海凪ちゃんの口から、──「おにいちゃん♡」と囁いてもらうという使命を果たしてない!」


「……海凪、帰ろう」

「え? いいんですか?」

「ああ、こういうのは相手しちゃいけないんだ。分かったか?」

「は、はい……」


 そうして俺は海凪の細い腕を手に取って、踵を返そうとするのだけど、


「まっでぐれよ~」

「足を掴むな! ロリコンが移る!」

「そんなこといって本当は大河も「おにいちゃん♡」って言ってもらいたい気持ちはあるんだろ~? 知ってるからな~? 俺が貸したエロゲの妹キャラが「おにいちゃん、お願い♡」って言ってるシーンをリピートして悶えてたのは~」

「は!? なんで知ってんだよ!」

「そりゃあ部屋の壁が薄くて聞き耳立てれば聞こえるからな~」

「聞き耳立てんな! そもそも! あれは声優さんの演技がツボだったからであってだな!」

「はいはい、言い訳はいいでちゅよ~、おにいちゃん♡」

「きめえ!」


 俺の足にへびみたいに絡みついてくるやかましいお隣の顔を踏みつければ、いいダメージが入ったのか、抱き着く力は弱まりその隙に俺は抜け出す。

 のだけど……、


「いいですよ?」


 逃げ出そうとした先で立っていた海凪が言う。


「……何が?」

「お隣さんの使命のことです」

「おい、まさか……」


 なんで海凪はそんな献身的なのだろうか……。聞き逃さなかったお隣が元気に立ち上がってしまったじゃねえか。


「海凪ちゃん海凪ちゃん、これ! これやって欲しい!」

「おい、なに見せてんだ!」


 お隣が手に持ってきたのは件のエロゲの妹キャラが上目遣いで、「おにいちゃん、お願い♡」と囁いてるイラストを表示させたタブレット。

 お隣は俺の抵抗などものともせず、目を光らせて懇願する。


「お願い! この通り!」

「どの通りだ」


 涎だらだらじゃねえか。

 しかし海凪は、


「この絵の真似をすればいいんですか?」

「うんうん!」

「分かりました」


 小さな両手を握り合わせ、俺とお隣の顔を見上げるように言うのだ。

 ふんだんに愛嬌をにじませるその声で。

 庇護欲をかきたてるような、潤んだ琥珀の瞳で。

 純真無垢を思わせる、愛らしい表情で。



「──おにいちゃん、お願い♡」



 こうして俺たちは死んだのだ。



 ~~~


 神の息吹がかかったのか、海凪に潜んでいた上目遣いという凶器に刺されたはずの俺は意識を取り戻すことが出来た。

 まったく、エロゲを返しに行っただけだというのにとんだ災難に遭ったものだ。


 未だ昇天中のお隣が気がつくにはもう少し時間がかかりそうだったので、ラインで『これからはロリコンを抑えるように。あと、海凪に聞こえるからデリヘルも呼ばないように』と釘を刺して自分の部屋に戻ってきた。


「よかったんですか? そのままにしてしまって」

「ああ、ほっときゃそのうちピンピンするだろ」


 泡を吹かせた張本人が何を、と思うがお隣が自ら頼んだことなので海凪に罪はない。


「大河さん」

「なんだ?」

「あたし、勝手に大河さんと呼んでますけどどっちがいいですか? その──、「おにいちゃん」と」

「うぐっ……」


 おかしい。どう考えてもおかしい。

 昨日寝言で呟いてたときは、可愛いなあくらいにしか思わなかったというのに。

 少し照れて、恥ずかし気に口にされるだけで「おにいちゃん」という呼び方はこんなにも威力を増すのか……。エロゲのセリフでは何度か聞いたが、実際に妹に呼ばれるのとでは段違いに脳に響いてくる。

 ただでさえクラクラしてるというのに、呼ばれるたびに悶えていたらいくつ命があっても足りない。

 なので、


「普通に大河さんで勘弁してくれ……」

「そですか。じゃあ変わらず大河さんって呼びますね」

「ああ、頼む」

「でも、いつかは選ばれなかった方で呼びますからね」


 海凪はそう言ってはにかんだ。


 果たしてそのいつかが訪れたとき、俺の心臓は耐えられるのだろうか。

 未来の俺のみぞ知ることであった。


 その日の夕、母さんから『私の名前と一文字違いの女の子は、凶器をどこかに潜めている』というメッセージとともに妹モノのエロ漫画が届いたが、もう今更遅いし、部屋からエロは排除すると決めたのでお隣にポストに投函しておいた。

 これでお隣のロリに対する欲求は少しは収まるだろう。


 ちなみにパソコンに入ってるエロゲとかも全部削除済みだ。

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