夏休み明けの一日
日の光の刺激を受けて、今日も目が覚める。清々しいほどあたりを照らす陽光は、紬には眩しかったらしく、彼女は目を細めた。憂鬱そうなその目は次の瞬間、トロンととろける。あうあが彼女の視界に入ったからだ。
「あうあ、おはよう」
寝ているあうあからは何の応答も無い。だが、見ているだけで紬は幸せだった。ぽっかりと空いた穴の中に春の陽だまりが降り注ぐが如く彼女の心が満ちていくのを感じる。
リビングへ向かう。寝起きの口をいっぱいに動かしてみる。
「おはよう」
誰からの返答もなかった。分かっていたことだ。1日中働く者はもう家を出てるし、そもそも死者は喋らない。
今日も紬は一人寂しく静かに朝ごはんを食べる。彼女にとってこの時間は嫌で嫌でたまらない。ただのエネルギー摂取のための虚しい時間。彼女は朝食を食べ終えると仏壇に向かった。そこ飾られている写真の中では紬によく似た男性が静かに微笑んでいた。
「おはよう、お父さん」
学校へ行く前に紬は自分の部屋を覗いてみた。中のベッドにはあうあがまだ寝ている筈だ。
「やっぱり」
思わず顔がほころんでしまう。あうあは紬の予想どうり、毛布にくるまって寝息を立てていた。紬はまだ髪の毛が生えそろっていない彼女の頭に小さなゴミが付いているのを見つけた。黒くて、尖がっているもの。まるで角みたいだ。転びでもしたら、かなり危ないだろう。紬は長袖のパジャマを萌え袖のように引っ張って、あうあの頭にそっと袖越しに触れ、ゴミをつまんだ。ところが、引っ張ってみても、それはあうあの頭から離れない。
「ゔ〰!」
どうやら痛かったらしく赤ちゃんは頭を抱えて泣き出してしまった。それはもうギャン泣きで。
「ごめんね。痛かったね」
紬は泣いている子の頭を優しく撫でてあげる。
痛そうな素振りを見せたということはそのゴミに見えたものはゴミなんかではなく、実際に彼女の頭に付いているものなのだろうか。だとしたら、本当に角……?
(まさかそんな筈ないよな。でも、神様が遣わして下さったこの子なら角だって生えていてもおかしくない……?)
そんなことを考えていたらいつの間にかあうあは泣きやんでいた。どうしたの?という風につぶらな瞳で見つめてくる。そして。
「いちゃか、った」
あうあが口をパクパクさせた。大きく目を見開く紬。
「いま、痛かった、って言った、の?」
問いかけてみてもあうあからは何の反応も無い。首を傾けてキョトンとしている。紬は自分でも気が付かぬうちに笑みを溢していた。
「んじゃあ、補習行ってくるから。すぐ戻るからいい子で待っててね。バイバイ」
明るく話す彼女の足取りは重かった。
セミの鳴き声が遠くから響くなか、紬は補習終わりの学校を後にした。周りは常に同級生のはしゃぎ声で溢れかえっていて、彼女にとっての雑音が途切れることは無い。その中を紬は一人で歩く。今年の夏はずっとそうだった。去年、高校1年生まではそんなことも無かったのに。
最寄り駅で電車を待っていると、あるクラスメイトが視界に入った。セミロングの髪に制服のスカートによく似あっている緑のベスト。クラスメイトであり紬がかつて所属していたバンドのメンバーだ。今はもう、話すことがないであろう人。こちらの視線に気づいたのだろうか。紬は彼女と目が合ってしまった。慌てて視線を逸らしてしまう。今の行動はわざとらしかったと反省するがもう遅い。不自然な行動は両者の関係を余計気まずくさせるだけだ。紬は横目で彼女の様子を覗いてみる。見れば、彼女も同じように目を伏せていた。
「まもなく、一番線に電車が参ります」
彼女は紬とは反対のホームにいるため、一番線の電車がくるとその姿は見えなくなった。
もう9月からずっと、こんな関係が続いている。元バンドメンバーとの気まずい関係は一向に解消しない。きっともとの関係に戻ることはあり得ないだろう。そして、この胸にぽっかりと空いた虚無も、塞がることは無いだろう。
紬は憂鬱そうに帰途に就いた。
紬が家に帰ると、少し寝ているあうあの背が大きくなった気がした。朝まではゆるゆるだった黄色いロンパースがもうぱっつぱっつになったように思える。朝の8時に学校の補習のために家を出て、ただいま午前11時。
(たった3時間で……?)いや、半透明だし、角っぽいものも生えているし、そもそも何処から来たのか分からない子だ。何があってももう驚くまい。
あうあの顔をベッドの上から覗き込む。長いまつげに白い肌、まるで天使みたいだ。突然、赤ちゃんの目がパチクリと開いた。朝みたいに喋ってくれないかなという期待を寄せつつ、
「おはよう」
と言ってみたりする。
「んはゃよぉ」
(!!……っ!)まさかの返事に、紬はいきなり飛んできた桃色の矢に心臓を撃ち抜かれるようだった。
「つ、む、ぎ」
「ちゅ、ん、ぎ」
「あ、う、あ」
「あ、う、あ!」どう、上手く言えたでしょーと言わんばかりに目を輝かせるあうあ。
「可愛い……」
上手に出来たご褒美として、頭を撫でてあげる紬。その手は、あうあの頭をすり抜けて虚空を撫でた。コンマ一秒、触れられなかったことに背筋が凍る。そうだ。その子は普通の子ではないのだ。物越しではないと触れられない。昨日赤ちゃん用の脱脂粉乳を買ってきたが、彼女は一切飲まなかった。それでも生きていけるらしい。
ちょっと不思議な、紬の、唯一のオアシス。
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