温もりに触れ
それからあうあはまるでかぐや姫みたいな驚異的な早さで成長していった、肉体的にも精神的にも。今では拙いが紬と言葉のキャッチボールをすることだってできる。
あうあのおかげで紬は登校もそんなに苦ではなくなっていた。家に帰ればあうあがいると思うと、学校にいる時間なんてそれまでの辛抱だと考えればいいからだ。家に帰るのが楽しみになっている自分がいる、と紬は感じている。
ぱっと見は6歳児くらいだろうか、ロンパース改め紬の黒Tシャツを身に纏うあうあ。もちろん、シャツは彼女にはぶかぶかなのでワンピースと化してしまっている。萌え袖を通り越して手も足も服で見えない状態になっていて、転びそうで危なっかしい。そんな彼女をひやひやしながら紬が見守っていると、あうあがお化け状態の手を前方へ突き出しながら歩いてきた。
「つむぎ、つむぎ」
「どうしたの」
「おなか、すいた、いただきます、しよ?」
「わかった」
そう言って紬はキッチンへ向かう。案の定そこにはだれもいない。母親の帰りは遅く、紬と顔を合わせることはほとんどなかった。いつも料理を作っている紬にとっては自分のつくったご飯を目の前でおいしそうに食べてくれるあうあが有難かった。
おにぎりと冷蔵庫にあった作り置きをリビングのダイニングテーブルに載せてから自室に顔を覗かせる。
「あうあ、いただきます、するよ。リビングに……」
紬が言い終わらないうちにあうあが猛スピードでリビングリームにその小さい足を一生懸命に動かして突進していった。くすり、と小さく笑みが零れる。
「あうあ、走ったら転んじゃうよ」
「だいじょぶだもん!こよばないって………」転んだ。どうやらワンピースと化したシャツが走っているうちにもつれたらしい。
「うぅ、うぅ」
泣きそうに目をうるうるさせるあうあ。しかし、その口は泣かまいとでもするかのように固く結ばれていた。
「よしよし」とあうあの頭の上で手を振りかざす紬。未だにこの不思議な子に触れられないけれど、一応なでなでするようなポーズをとってみる。精神安定剤にはなってくれるだろうか。
にしても、おかしなものだ、と紬は思う。始めの頃は何も食べなくても平気だったあうあが最近では食べ物を欲しがるようになった。もっとも、一口食べたら満足し、それ以上は何も口にしないのだが。あうあが食事をするようになったのには何か理由があるのだろうか。
「いただきます、しにゃいの?」
いつの間にかあうあがダイニングの椅子にチョコンと座っていた。椅子には自力で登ったらしい。テーブルと椅子が彼女には大き過ぎて、紬からは小さくて黒い角の生えた頭しか見えない。
「……くしゅん!」とくしゃみを一発かました紬をあうあが不思議そうな目で見つめる。「……あぁ。これは”くしゃみ”って言うんだよ」
その瞬間、あうあの瞳が花開いたように明るく輝いた。
「くしゃみぃ!」
あうあは新しい言葉を知ることが出来て嬉しそうだ。
「くしゃみぃ、くしゃみぃくしゃみぃ!」
紬もつられて自然と口角が上がる。
「ふふ、じゃあいただきますしよっか」
「うん!」
「手を合わせてください。せーのっ」
「いただきます」「いちゃだきます!」
「……つむぎ、だぁいじょうぶ?」
幼さの残る舌っ足らずの声が横から聞こえた。
熱い。重力が1万倍になったかにように体が重い。ベッドで寝返りをうつのもしんどい。言われなくても自分で分かる。どうやら風邪をひいてしまったらしい。昨日のくしゃみもその予兆だったのかもしれない。
背中から紬の熱を感じる。いつもとは様子が違う紬を心配して寄り添ってくれているに違いない。いつも二人は同じベッドで寝ている。が、それも今日は危険だと紬は判断した。このままではあうあに風邪を移してしまうかもしれない。幼いあうあは風邪を重症化させてしまうかもしれない。
「大丈夫だよ。おやすみ、あうあ」
それをきくとあうあは安心したのだろうか、急に目がまどろみだした。外はまだ真っ暗だ。相当眠かったのだろう。すぐに寝息が聞こえてきた。
ほどなくして紬は気だるげにベッドから這い出した。もちろん、あうあが起きださないように細心の注意を払いながら。
リビングの時計は午前3時を示していた。道理であうあも眠たかったはずだ。そのままリビングのソファへ横になり、部屋から持ってきたタオルケットを自身に被せる。本当はベッドで寝たいところだが、体調が悪いのに誰か、ましてや幼児と一緒の布団で睡眠をとる訳にはいかないだろう。
照明を落としたリビングには真っ暗な闇が広がるばかりで、物音1つ聞こえない。この世界に一人だけ、そんな感じがする。闇は足元に粘りついてはこない。冷め切った、がらんどうな漆黒がどこまでも続いているだけだ。闇が全てを飲み込んだのではない。逆だ。何もかも無くなったから虚ろなるものだけが残ったのだ。しかしそれは、この家に一人の赤ちゃんが来てから変わった気がする。彼女のあたたかさに触れるとともに、紬の抱える空虚に光が差してー。
ぱっ。
居間の電気が点灯する音がした。
「紬?なんでこんなところで寝てるの?」
「お母さん……?」
「こんなところで寝たら風邪ひくよ。……ちょっとおでこ出して」
「ん」
素直に前髪をかきあげておでこをあらわにさせる。目の前には母の顔があった。こんなにも近くで眺めたのはいつぶりだろうか。
「熱があるね、紬。今日はもう学校休みなさい。先生に連絡しとくから」
「……休みたくない」倦怠感が増してきて口を開くのも重労働だった。それでも力を振り絞った。「休みたくない」
「どうして」
母が怪訝そうに紬の顔を見つめる。
「1回休んじゃったら、もう二度と学校に行けなくなるような気が、するから……」
「……どういうこと?」
なおも母親は紬の顔を覗き込んでくる。紬はたまらなくて視線を逸らした。
(言えない、言える訳ない……私がずっと学校に行きたくないって思ってたなんて……)
息苦しい沈黙が続く。それは普段の二人の交流の無さを表していた。先に沈黙をやぶったのは母だった。
「そう。じゃ、私はもう仕事に行かなきゃいけないから」
そう言うと紬にタオルケットを掛けて準備をし始めた。レンジの電子音、ドライヤーの風切り音。暫くしてドアを勢いよく閉める音と玄関の鍵を閉める音がリビングまで聞こえてきた。
時計をみるとまだ午前5時にもなっていなかった。いつもそうだ。早朝に起きて紬が寝ているうちから家を出ていく。まともに会話をしたのはどれくらい前だっただろうか。母は、風邪を引いている娘を放置して仕事に出掛けるほど忙しいらしい。今、リビングはひっそりと静まりかえっている。
(もう少し心配してくれてもいいのに……)
真っ新なノートが黒鉛筆の線で塗りつぶされてゆく。
(お母さんが来てくれたと思ったのに……)
真っ黒になったページは破りとられて、ぐちゃぐちゃに折りたたまれた。
(私はまた、一人になってしまった。)
倦怠感に耐えられなくなり、紬の意識は底へ落ちていった。
タオルケットの中にもぞもぞと何かが入り込む感覚がする。その何か、は暫くして紬の頬をつつき始めた。
視界が開ける。あうあが紬と同じ体勢で横になって、こちらをうるうるした目で見つめていた。
「あうあ……?」
そのとたん、あうあの顔がくしゃっとなった。どうやら、しんどそうな紬が心配だったようだ。
(あれ、いまあうあが私に触れた……?)
物越しでしか、存在を確かめることが出来なかったというのに。いつもならあうあの背景が透けて見えるのだが、気のせいかもしれないが、今日はそれがぼんやりとしか見えない。
(もしかして、少しずつあうあが実体化してきてる……?)
思い違いかもしれないと思いつつ、彼女の方へ手を伸ばしてみる。あうあの頬に手を添えることがー出来た。文字通り透明感のある肌が今日は一定の反発を与えてくれる。紬は風邪であることも忘れてあうあに抱きついた。彼女の暖かさが紬に染み込んでいった。
(私はもう一人じゃない。)
紬の中で彼女の存在が大きくなりつつあった。
「つむぎ、きょうはがっこーいかないの?」
紬のハグからしばらくたってあうあが彼女に尋ねた。
「今日は風邪だから、学校はお休みかな」
寝たら大分体調は戻ったが、親に学校を休むと連絡された以上、家で大人しく過ごす方が賢明だろう。
「か、ぜ、ってあの、びゅんびゅんふくやつ?」
「違う、違う。体の調子が悪くなって、体が熱くなったり、くしゃみが出たりすることだよ」
あうあはすぐになぜか大きくなるので、見た目に反して知らないことが多い。
「ふーん。あ、くしゃみぃ!」
昨日覚えたばかりの言葉が出てきて嬉しそうな彼女。
「くしゃみぃ、くしゃみぃ!」と、はしゃいでいた手が急に紬の額に伸びてきたので、彼女は驚いた。
「……ん?」
とりあえず、あうあのされるがままにしておく。突然、あうあが手を離した。
「でも、つむぎ、あんまあつくないよ?」
どうやらおでこの温度を確かめていたらしい。
「そう?」
「うん」
「でも、今日は学校休むよ。また熱があがったら嫌だし、それに……」
「そえに?」
「学校、ほんとは行きたくないし……」
「なんでぇ?」
「……あうあには関係ない」
唇を噛む。あうあは何も悪くないのに、辛く当たってしまう。でも、そんな反応を取ってでも彼女に知られたくないことがある。
あうあの困惑した目線に晒されるのがキツくて、紬はリビングを後にした。
自室に戻ると、メールが来ていた。誰から?この前駅のホームで会った元バンドメンバーでありクラスメイト、穂香からだ。
今更、何の用だろうか。
恐る恐るメールを開く。
〈明日、地理が倫理に変更。球技祭の係決めます。〉
なんてことは無いただの業務用メールだった。安堵半分、落胆半分。クラスで仲良くしている人が紬にはいないため、事情を知らない他の生徒が元バンドのよしみで連絡を穂香に押し付けたことは、容易に想像がついた。でなければ、あの子が自分から紬への伝達係を引き受けるはずもないのだから。
しばしの間、ベッドに座って返答を考え込む。画面を見つめているだけなのに、気持ちの錘が意識されて心がずんずんと沈んでいく。いつの間にか、あうあがてくてくとやってきて紬の膝によじ登った。
「つむぎ、かおがいつもとちがう。なんかこわい。どーしたの?」
「あうあ……」
心にかかっていた錘の一部が外され、軽くなったような気がした。心配されて、嬉しかったのかもしれない。「つむぎがなやんでるりゆうしりたい、おしえて。つむぎがつらい、とあうあも、つらくなる」
あうあが紬の顔を見据えて言葉を放つ。その真剣さに気圧されるように紬は考えを改めた。一人で抱え込むのは間違っていたのかもしれない、と。
紬は、ゆっくりと今までのことを話し始めた。
紬が高校1年生だったとき、父親が病気で入院したこと。そのため、スクールバンドの練習の裏でバイトを入れ始めたこと。段々バイトの量も増えバンドの練習が疎かになってしまったこと。その間も紬は家の事情をなかなか話せず、無断で楽器の音合わせを休み続けたこと。ついには、軽音楽部のライブまでドタキャンしてしまったこと。そしてー罪悪感から部活に行けなくなり、バンドを逃げるように辞めたのが2年生の6月。以来、元メンバーとは一言も喋っていないこと。それどころか、新しくなったクラスでも基本一緒にいたのがバンドの子だったので、気まずくなるや否や学級でも孤立してしまったこと。一人ぼっちになった学校では全てが無味乾燥に思えるようになったこと。
ここまで話して紬はふぅと息を吐いた。
あうあはまっすぐに紬の目を見て彼女の話に耳を傾けていた。時々コクリコクリと頷きながら。
これは誰にも、それこそ母親にも言っていなかった話だ。他人に理解してもらおうとは考えていなかった。自分一人でずっと胸の内にしまい込んでいたことだった。が、人に話すことで少し心の錘が気にならなくなったようだ。そう、結局は自分の中でその存在を意識するかしないかの問題なのだと紬は思った。
突然、あうあが紬の膝元から飛び立ち上がった。
「つむぎ、あたまだして!」
意味が分からないが取り敢えず従うこととする。だが、あたまをだすとは……?
「こ、こう?」と頭を彼女の方へ突き出す紬。
「よくできました」透明を帯びた手が丁寧に紬の頭を撫でた。「えらい、えらい」
その言葉は紬が抱えていた何かの鍵をこじ開けた。
「私、頑張った……?」嗚咽が零れそうになる。「さみしかったけど、気丈に振舞えた、かな」
「うん、うん」
その手はこれまでと違って確かな感触を紬の皮膚に残した。不意に、彼女の頭全体が小さな腕に包まれた。ぎゅーってそれはもう、思い切り強く。
「あうあは、がっこーでのつむぎをおうえんしてる」
残暑が厳しいせいだと思いたい、目から汗水が滴り落ちそうになったので急いでキッチンへと避難した。あうあにこんな姿は見られたくない。
ずっと一人ぼっちだと思っていた。応援してくれる人がいるだけでどうしてこんなにも心強いのだろうか。
ふと、流し台の横に置かれていたお椀が目に留まった。中にはお粥が入ってあった。小さいころ、紬が熱を出したときに母が作ってくれたものと同じ枝豆入りのお粥。
胸の奥が温まっていくのを感じる。
お椀のそばに、小さなメモが置かれてあるのを発見した。母らしい、達筆な字が音声を伴って頭の中にありありと浮かんでくる。
〈紬へ
お粥はチンして食べてね。お大事に。
体調が悪いのに、一緒にいられなくてごめんね。いつも家に一人にしてしまってごめんね。ほんとにごめん。
私は紬のことが大好きです。〉
「っお母さん……」
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