12.綾小路龍治、復活の兆し-1
柾輝のハイライト消失事件――龍治が心の中で命名した――が起きた晩の事だった。
安楽椅子から
ぼんやり顔を普段の物へ戻す。柾輝以外の人間に堕落しきった様を見せるのは、まだ抵抗が大きかった。
「ばあや? どうした、珍しいな」
柾輝の取次で入室したばあやに、率直な言葉を口にする。事実、彼女が直接龍治の部屋を訪れるのは今や珍しい事なのだ。
ばあやは龍治がもっと幼い頃に、付きっきりで面倒を見ていてくれていた人である。龍治が小学校三年生に上がった辺りから少しずつ自分の仕事を柾輝と他の龍治付き使用人へ移行させて行き、今では女中頭としての仕事に専念していた。
世話役を外れた今でも関係が絶たれた訳ではなく、龍治を孫のように慈しんでくれている事に変わりはないが、部屋を直接訪ねたりする事は
世話役でなくなった自分が頻繁に龍治の元へ訪れたり、執拗に構うのは、今の世話役である柾輝と使用人たちを信用してないと取られかねない――そう思っているらしい。柾輝たちへ気を使っていた訳だ、彼女は。
「夜分に申し訳ありません、坊ちゃま」
「いや、別にいいけど。何かあったか?」
「――内密にお話が御座います」
綾小路家で未だに龍治を「坊ちゃま」と呼ぶ唯一の女性は、深々と頭を下げてそう云った。
龍治は椅子に座ったまま、ばあやを見つめる。離れて控えていた柾輝が、さっと龍治の側へと侍った。それをチラリと見遣ってから、龍治は改めてばあやに視線を向ける。
「……柾輝の前で話せない事なら、俺は聞かないぞ」
「そう云った類のお話では御座いません。ご安心を」
「そうか。……わかった、話を聞く。顔を上げてくれ」
「坊ちゃま、有難うございます」
「長くなるなら椅子を用意させるけど」
「お気遣い有難うございます。お願い出来ますか?」
「柾輝」
一声かければ、柾輝がさっと動き、部屋の隅にある客人用の椅子を持ってきてばあやへの側へと置いた。「どうぞ」と小声で柾輝が告げれば、ばあやは優しげな微笑みと共に礼を云って椅子に座った。
柾輝が側に戻って来てから視線で続きを促す。ばあやも心得たと頷いて、口を開いた。
「――風祭家の
「おばあ様が……」
風祭伊代子――眞由梨の父方の祖母であり、実質風祭家に君臨するお
風祭家の今は亡き先代は入り婿だったらしく、先代は刀自には頭が上がらず、それは息子である当代も同じ事。
今も昔も、刀自の意向が風祭の行き先を決めている。
その人が、龍治に“今”会いたいと云う。
(……
想像を巡らせるまでもなく、それしかない。
これまで龍治が風祭家を訪ねたり、何らかの集まりで顔を合わせた際に、世間話のようなものはした事はあるが、二人きりで会話に興じた事はない。
それなのにわざわざ綾小路家のばあやを通して、このタイミングで内密に、である。眞由梨の事だとしか思えない。可能性はゼロではないだろうが、他の話題であったら驚く。
「俺と二人きりで、と云う事か? なら断るしかないが……」
「いえ、大旦那様と旦那様、そして奥様にだけは決して漏らさぬようにとの事ですから」
「ふぅん……」
保護者に知らせるな、と云うのは通常であれば怪しむ所であるのだが。眞由梨の事であるならば、それは致し方ない事かと龍治は思う。
刀自としても下手に綾小路を刺激したくないのだろう。そこは龍治も賛成する。好々爺然としながらも傑物には違いない祖父も、歩く地雷原のような父も、その二人に影響を与えられる母も、龍治に対してドロッドロに甘いのは周知の事実。龍治の不興を買ったら、この三人から何をされるか分からない。その恐怖は誰であれ感じるものだろう。
あまりに些細な事であれば、三人も気にしないだろうと思うが。ただの希望かも知れない。
「――柾輝は同伴させていいって事か」
「はい。願い出る側から条件を付けて申し訳ない、と言付かっております」
「ふむ」
あのお刀自様は自分の一族には高圧的だと云うのに、龍治に対してはどうしてか腰が低い。綾小路家次期当主ではあるが、刀自の孫と同い年の従兄弟でもあるのに、だ。
確かに刀自は眞由梨に対しても甘かった。可愛い孫娘として大切にしていた。それでも、眞由梨が
しかし龍治には、そのような事一度もなかった。
手を滑らせてお茶を零した時にも、
血相を変えて駆け寄って来て、火傷はしていないか、怪我はないかと大慌てで、無事だとわかると心底安堵したような顔をした。
いくら綾小路家が絶大な力を持っているからと云って、刀自の性格から考えれば不自然なように思えるのだ。
(現に、伯母さまには結構キツい態度らしいしなぁ)
綾小路家に脅威を感じるなら、伯母の幸子をもっと大事にするだろう。現当主の実姉なのだ、気を使うべき相手である。
しかし伯母から聞く話によると、テレビで見るような嫁姑関係と近い。嫁に厭味を云ったり、邪険に扱ったり。
我慢出来ないほど酷くないし、実害や損害はないからムカつくけど別にいい、とは伯母談である。昼ドラにあるような手酷い嫌がらせまでは受けていないようなので、龍治も愚痴を聞くだけで口を挟む気はなかった
しかしそんな刀自が、龍治にはまるで目上相手のような態度をとる。
それを不自然に感じてしまうのだ。
(さて、どうしようかな)
正直に云うと、面倒くさくて厭だ。凄まじく億劫だ。眞由梨についてあれこれ云われたくもないし、今の精神状態で余計な面談などもしたくない。
しかし、だ。
心のどこかで、「これは切っ掛けだ」と囁く声がする。
今の惰性から抜け出す、大事な切っ掛けだ、と。
その声はゼンさんのものかと思ったが、どうやら違う。それは、「このままではいけない」と訴える龍治の
「……」
自分で、少し驚いた。
怠惰に過ごしていたけれど、なんとかしなくてはと漠然と思っていたけれど、それは“何か”に対して格好つけているだけで、本心では「もうどうでもいい」と諦めきっているのではないかと思っていたのだ。
それなのに、理性は正しく
龍治は自身で思うより、ずっと諦めが悪いのかも知れないと今初めて知った。
「――わかった。会おう」
「龍治様っ」
答えは即答に近い。実質、悩んだ時間など三秒くらいだ。頭の回転が速いと、秒単位の間にあれやこれやと考えられるもので。
つまり龍治にしてみれば熟考に値する思索から出た答えでも、他者から見れば短慮や即断に見える訳である。
だから柾輝は、驚いたように龍治の名前を呼んだのだろう。
「なんだ、柾輝。反対か?」
「い、いえ。その、驚いて……」
「まぁ、気持ちはわかるが」
柾輝の頭をペスペスと撫でるように叩いてから、ばあやへ視線を戻す。ばあやはまだ真剣な顔をしていた。
「その話はおばあ様から直接来たのか?」
「いえ、風祭家の家令を経由してです」
「あぁそう云えば、ばあや達は交流があったな」
ばあやの夫と風祭家の家令が竹馬の友と云う奴らしい。それが切っ掛けで、ばあやは家令とその妻とも親しい付き合いがあるとか。確かに話を通し易いだろう。
「父さんたちに内密、以外の条件は? 日時とか、話したい場所とか」
「お会いになる日は、龍治様のご予定に合わせると。場所は伊代子様の薔薇園をご希望との事です」
「薔薇園――」
そう聞かされて脳裏によぎったのは、夢に出てきた永劫の薔薇の園だった。
いつまでも続く、終わりの無い園。思い出して、背筋が粟立つ。美しいのに恐怖を掻き立てる場所だった。
(……そっか。あれは、おばあ様の薔薇園だったのか)
だから幼い龍治と眞由梨は、自由に歩き回れていたのだと理解する。刀自管理の薔薇園内なら大きな危険はなく、ある程度は放っておかれたのかも知れない。もしくは、傍から見れば仲良さげに見える龍治と眞由梨に“気を使った”とも考えられるか。
夢を思うと行くのに
我慢して行くしかないだろう。
「わかった。ただ薔薇園に行くとなると、ちょっと考えないとな」
龍治が外に出る場合、行き先を家の者に伝え、いつ頃戻るかもある程度目処を立て、さらに護衛も連れて行かなくてはいけない。この時に嘘をつくのは考えものだ。
龍治が叱られるのではなく、龍治に“嘘をつかせた”周りがお咎めを受けてしまう。それは厭だ。龍治と刀自の都合で、職務を全うしている者たちに
しかし、せめて護衛だけでも外さないと内密に会いに行けない。
(あのおばあ様が、その辺を考慮してないとは思えないけど)
風祭に君臨する人は、愚かでも莫迦でもない。龍治がこうした事を気にする性質なのはご存じだろう。しかし身内に内密で自分の庭まで会いに来いと云っている。
それはつまり――。
龍治なら、自力で護衛や家をどうにかして、極秘で自分に会ってくれるだろうと思っている訳だ。
(買い被りだよなぁ。俺、そんな有能じゃないけど―――あ、そうだ)
良い事を思いつく。
キャンプに行ってからは、家が忙しいからと理由を付けて会ってない子がいる。
大事な女の子。格好悪い所など、絶対に見せたくない相手。
だからこんな状態になってからは、意識的に遠ざけていた。
ふとした拍子に己の虚ろさに気付かれたくはないと、必死に背中を向けていたけれど。
この切っ掛けに乗るのならば彼女の存在は必要不可欠だと、何故か強く思うのだ。
挑みに行くのなら、隣には柾輝と――花蓮にいて欲しい。
二人に、龍治の側にいて欲しい、と。
だから思い付く。
――花蓮に会う“ついで”に、刀自と面会すればいいと。
そうすれば家族にはばれず、会いに行ける方法を取れるのだ。
「――柾輝」
「はい」
「明日になったらなるべく早く、花蓮の今週の予定を問い合わせろ。昼から夕方まで時間のある日をな」
「花蓮様のですか? わかりました。お伺いします」
「ばあや。日時の決定は明日まで待ってくれ。“花蓮を巻き込む事にした”」
「坊ちゃま? それはどう云う……」
「風祭のばあ様がわざわざ俺を呼ぶって事は、話の内容は多分眞由梨の事だろう?」
「……恐らくは」
「なら、巻き込む……は正しい表現じゃないかもな。花蓮も当事者だ。連れて行く。構わないだろ?」
「条件には反していないと思われます。問題はないかと」
しっかり頷くばあやに、龍治も頷きを返した。
「では、また明日」
「はい。……夜分に申し訳ありませんでした、坊ちゃま」
「いや、いいよ。……きっと、“丁度良かった”んだ」
その言葉にばあやは不思議そうな顔をしたが、龍治は笑って誤魔化した。
椅子から立ってばあやを見送り、それから改めて窓辺へ向かう。
月が明るい。太陽光を反射して一度死んだ光が、等しく大地へ降り注ぐ。
「龍治様」
「ん?」
「いつものお顔ですね」
嬉しそうに柾輝が云うので、視線を月から彼へと移した。
柾輝は久々に屈託ない笑みを浮かべている。ここの所、まったく見せていない笑顔だ。哀しい色など欠片もない、柾輝の笑顔。随分久しく感じる。
それと同時に、気が早いと思う。
(全然本調子なんかじゃないさ。頭の中は、まだぐちゃぐちゃだ。腹が立ってるし、苛立ってるし、どうしようもないって絶望もしてる。こんな現実、どうしたらいいんだって哀しくもあるし、どうにもならないかもって恐怖でいっぱいだ)
未だここ一ヶ月以上の間、龍治を苦しめる負の感情からは抜け出せていない。ずっぷりと嵌まり込んで、抜け出す事など無理なように感じる。
けれど龍治は―――自分の脳のエンジンが、虚ろに空回るばかりだったそれが、徐々に重々しく手応えを持って回り始めている事を感じていた。
(この切っ掛けを逃すな。俺にはまだ―――きっと、何かが、出来る)
そう思い込みたいのか、信じたいのか、騙されたいのか。わからない。それでも龍治は、“まだ諦めきっていない自分”を実感出来た事が嬉しくて、口の端で笑えたようだった。
――脳の奥底。
膨大な記憶の塊が久方ぶりに、小さく動いた気配がする。
それはまだ普段の騒がしさとは程遠い幽かな揺らぎだったが、それでも確かに“彼女”が動いた。
その感触を実感しながら、龍治は拳を強く握った。
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