11.無我の境地と云う名の怠惰-3
お盆を終えれば、残りの休みは約二週間である。
工場見学は祖父の都合で八月末に決まった。それまでの間に、日本に住む友人知人に会いに行くとの事だ。日本に帰ってきても忙しい人だ。
見学に向かうのは、龍治の希望で乳製品の加工場である。一応は、楽しみだ。祖父と出かける機会と云うのも、あまり多くはないので。
工場見学までの龍治の予定は、ぽっかりと空いていた。龍治の精神状態を
余計な事を、などとは思わなかった。流石にそこまで擦れた感想は抱けない。ただ、「そこまで気を使わなくていいのに」とは思う。
(こんな状態でも、柾輝にとって俺は主なんだな)
すっかり腑抜けた駄目主を、それでも大事にしようとする柾輝に少し泣けた。実際涙は出ないけれど、心情的な意味で。
見限ってもよさそうなものだが、それは無理な話だと分かってもいる。
今が戦国時代ならともかくとして、資本が物を云う現在においては不可能である。綾小路の力は、常識を軽々と
だからこそ、ゲームの『岡崎柾輝』は涙を飲んで『綾小路龍治』に従っていたのだ。
(やな事思い出した……)
それと同時に、恐怖の記憶もザワリと
眞由梨から連想された、恐ろしい考察が。
龍治は、今を生きるこの世界を、ゲームの世界ではないと思っている。正確に云えば、「そう思いたいと考えている」と云うべきか。
幼い自分が自我を持って生きている上、前世の記憶などと云うおかしな要素まで兼ね備えているのだ。ゲームの世界だと云うには無理があるだろうと、そう思うのだ。
その龍治が行動した結果、今のところ花蓮はゲームの『花蓮』と違い高飛車でもなく高慢でもなく、淑やかで可愛らしい婚約者で、柾輝も――龍治から見れば――憎しみも怒りもなく、ひたすら忠実に仕えてくれる
龍治の影響かどうかは知らないが、玲二もゲームのようなぶっ飛んだ性格にはなっていないし、恵理香、莉々依も同様である。
そう――彼女たち二人も、実はゲームに出ている。『花蓮』の取り巻きとして、ヒロインの前に障害として立ちはだかっていた。
『花蓮』と同じく高飛車気味なお嬢様たちで、『恵理香』は『龍治』に取り入る為に『花蓮』を利用している腹黒系。『莉々依』は他と比べれば大人しめだったが、とあるルートでは『花蓮』も『龍治』も切り捨てる“みんなのトラウマ”的な怖いキャラだった。
その片鱗は、今のところ見当たらない。
(恵理香は勝気だが世話好きな優しい子だし、莉々依は大人しくはあるが一本筋が通ったしっかり者だ。ゲームキャラの要素は、薄い、と思う……)
彼女たちの変化が龍治の影響であると断言は出来ないが、バタフライ効果と云うものがある。些細な出来事が後々大きな変化を
龍治が花蓮に対してまともな対応をしたから、その影響で彼女たちの性格も変わった、と云えなくもないと云う事だ。
考えてみれば、怖い事だと思う。龍治の行動が、色々な人の人格へ影響を与えていると云う事なのだから。
(最初は良い事だって、思ってた、けど)
眞由梨の存在が、その考えを
『龍治』の傲慢さも、『花蓮』の悪意も、下手をしたら『柾輝』の憎しみすら、彼女一人へと。
それは、酷く恐ろしい事だった。眞由梨があのままだったら、問題行動が激しくなって行った事は想像に難くない。それは、眞由梨の人生の崩壊を意味する。
龍治のよかれと思ってした行動が、少女の一生を狂わせる所だったのだ。
(いや、現在進行形で、狂わせてるのか)
伯母から教えて貰ったのだが、眞由梨は部屋にこもってしまい出て来ないらしい。食事を部屋の前に置いておくと数時間後には空となっている為、一応拒食にはなっていないそうだが。眞由梨の部屋には龍治の部屋と同じくトイレも風呂もあるらしいから、衛生面も多分心配ないとの事である。
しかし、部屋に入ろうとすると嵐のごとく怒り狂うため、手の出しようがないと云っていた。
龍治がよかれと思って、彼女を拒絶したからだ。それが眞由梨の為だと思ってした行為が、ただ彼女を追い詰めるだけになってしまった。
伯母は龍治を一言だって責めなかった。表情もそうだ。龍治への労わりに満ちていた。
――龍ちゃんは自分の精一杯をやってくれたんだから、気にしなくていいのよ。
そう云って、伯母は微笑んだけれど。
(……そうかな。俺は、精一杯やったのかな……?)
大いに疑問だった。
自分は、本当に全力を尽くしたのだろうか。これ以上にないほど、手を尽くしたのだろうか。眞由梨の為に、自分は自分に出来る事を全てやっただろうか。
――とても、そうとは思えなかった。
(一番楽な方法を考えて、合理性で選んだだけじゃないか)
あの時の最善は、眞由梨を正しく拒絶する事だけだと思い込んで。彼女の気持ちも祈りも見ないで、ただ、追い払った。
(とんだ人でなしだ……)
そうして得たその結果が、別の方向から龍治を
花蓮と柾輝を大切にする事で、これから先も眞由梨のような存在を生み出してしまうのではないか――その疑念が消えないのだ。
花蓮と柾輝を守りたい、大切にしたい、ゲームのような末路を迎えさせたくない。それは絶対に変わらない気持ちであり、龍治の行動概念の基盤のようなものだ。
けれど、その為に本来は別の道を歩み、まともに生きて行くかも知れなかった人の人生を狂わせていいかと云われたら、龍治はどうしても首を横に振ってしまう。
(プライドの問題かな。それとも、二人に対して後ろめたい気持ちになりたくないからか……)
両方かも知れないし、両方違うかも知れない。既にその辺りが曖昧になっている。よくない傾向だ。こんな中途半端な
だから今、龍治はこんな状態になっているのだろう。
ぼんやりと腑抜けて、柾輝を拒絶も許容も出来ず、他の誰にも弱味を見せないで。
どん詰まりだ。小学生にして、行き止まりについてしまった心地になる。
(どうしたらいいのかなぁ……)
そうやって考えようとすると、悪い想像とか怖い事ばかりが頭を占領するから、龍治はすぐに何も考えないようにしてしまう。
酷い悪循環だ。厭な連鎖である。それでも――どうしたらいいのか、分からない。
(……切っ掛け、とか、あればいいの、か)
多分、それが今の龍治に一番必要なものだ。そんな漠然とした気持ちを抱く。
切っ掛け――。
現状を打開するものか、継続させるものか、それとも打ち崩すものか。そんなものは分からないし、どうしたらいいのか分からないから、どの切っ掛けが欲しいと云う希望もない。
改めて―――駄目人間だ。
「……はぁ」
大きめに溜め息をつく。
今日も安楽椅子で過ごす龍治の側に、床に座り込んで侍っていた柾輝が顔を上げた。つられるように柾輝を見下ろすと、僅かに微笑まれる。それに応えないで、整った優しい顔立ちを見つめた。
(……俺には勿体ないなぁ)
そんな考えが頭をよぎる。そしてふと、思ったのだ。
(……そっか。その手もあるのか)
ゲームの記憶があるせいか、それとも個人的な好意があるせいか、龍治は「柾輝は自分の手元に置いて幸せにしたい」と云う気持ちがある。
だからこそ逆に、敢えて手放すと云う選択肢があるのではないか。
(役に立たないから、じゃなくて、自分には勿体ないからって方向で出来ないかなぁ)
現実的に考えて難しそうだが、難しいだけで不可能ではない気がした。
例えば、柾輝は大変優秀だから自分には勿体ない、とか。綾小路家は人材が豊富だから、良い側仕えがいなくて困っている人の元へ送ってはどうか、とか。
(……我ながら名案じゃないか?)
久しぶりに建設的な事を考えられたので、自画自賛してみた。
花蓮については――彼女は婚約者なので、他の男の元へやりたくないと云う気持ちが強い。しかし自分の元に縛り付ける事で不幸を招くくらいなら、龍治が認める男へ嫁がせた方がいいのではないだろうか。
よく考えれば、柾輝と花蓮って似合いの二人じゃないか? 気が合うのか仲もいいし、見た目も釣り合うし。問題は家格の差だが、龍治が云えば通るかも知れない。
(二人がくっ付いて幸せになったら、俺も嬉しいし)
そこに龍治がいないのは寂しいが、二人の幸せのためなら涙くらい幾らでも飲んでみせる。
思い付いたら即実行。
さっそく柾輝に聞いてみる事にした。
「柾輝」
「! は、はい! ご用命でしょうか?」
「お前、鞍替えする気ない?」
「……は、ぃ?」
「俺以外の奴に仕える気はないかって聞いてる」
云い切った直後―――柾輝の顔色と目の色が、一瞬で変わった。
顔色は蒼白に、目の色は暗く、例えるなら――ハイライトが消えた、的な。
(……あれ?)
「りゅう、じ、さま、なんで、ですか」
「え?」
「僕のこと、いらない、ですか……?」
「いや、そうじゃな」
「いやだ、棄てないで、ください」
「えっ、その」
「棄てないでぇ……!」
「え、えー……」
座る龍治の膝に縋り付いて、柾輝が泣きながら云う。傍目に見たら危ない光景じゃなかろうか。
何故か愁嘆場が出来上がってしまったので、龍治はとりあえず諦めた。あっさり頷かれたらそれはそれで寂しいなぁとか思っていたので、厭がって貰えて嬉しい気持ちも複雑ながら確かにある。
さて、この泣きじゃくる柾輝をどうしようかと見つめていたら、新人の使用人がノック無しでドアを開けてしまった。
泣きじゃくる柾輝と、それを無表情で見下ろす龍治の組み合わせに何を思ったか。新人は今にも吐血しそうな顔色と表情になり、「申し訳ありません……」と囁き声で述べ、深々と頭を下げるとそっと扉を閉める。
何やらあらぬ方向へ誤解をされた気配を感じたので、慌ててベルを鳴らして呼び戻し、「何でも無い。少し意見の食い違いがあっただけだ」と弁明するはめになってしまった。
新人は幽鬼のような佇まいでニコリ……と曖昧に微笑む。その笑顔の意味はなんだ。言葉で意思表明を願いたい。
とにかく「何でも無い、誰にも云うな」と云い含めて新人を部屋から出す。柾輝の頭をよすよす撫でながら「棄てないよ」と宥め
(なんでここまで厭がるんだろう……?)
名案だと思ったのだけれど。
やはり現実は、ままならないものだった。
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