11.無我の境地と云う名の怠惰-2

 夏休みが始まった。

 皆と約束したキャンプを楽しんで、家族旅行もこなし、一族が大集合するお盆を迎えてもまだ、龍治はぼんやりと日々を過ごしていた。

 全てを虚ろに過ごした訳ではない。

 花蓮たちと改めて行ったキャンプは、学校行事では体験出来なかった事、しなかった事が楽しめた。皆で見たホタルが舞う幻想的な光景は、一生ものの思い出になるだろう。

 毎年恒例の家族旅行は海外へ行く事が多いのだが、今年は龍治の希望で国内になった。「人が少ない所でのんびりしたい」と云った所、知る人ぞ知る秘湯へ連れて行かれて色々な意味で度肝を抜かれた。こんな山奥でひっそりしていて経営成り立つのか、とか大変失礼な事を考えたものだ。

 ふるいながら手入れの行き届いた旅館――と云うか旅籠はたごと云いたくなるような建物にて、やんごとなき身分の方々とばったり遭遇したのには驚いた。のんびりするつもりが余計疲れた気がする。温泉は気持ち良かったけれど。

 ――そしてお盆。

 首都圏辺りは七月十三日から十六日当たりを指す事が多いそうだが、綾小路家では八月十三日から十六日を示す。これは綾小路家のご先祖様が元々住んでいた土地の影響だそうだ。

 綾小路の直系傍系全てが集まる血縁のみの行事で、他家へ嫁や婿に行った者でもこの期間だけは帰って来る。己の配偶者の家のお盆に参加はしないし、相手も強要などしない。むしろ笑顔で送り出す。じゃないと綾小路家が「うちをないがしろにした」と怒るので。他家へ行った者でも自分の家の者として扱い、それがまかり通るのが綾小路家だ。

 ただし、他家で生まれた子供は相手の家の子として扱うので、連れて来る人は少ない。連れて来るのは、子供が希望したとか、子供にも綾小路家のしきたりと仕込んでおきたいとか、理由がある場合のみだ。

 直系であり次期当主でもある龍治は勿論参加だ。今の精神状態から云って参加するのは億劫であったが、面倒臭がっていい行事と悪い行事がある。これは面倒くさがってはいけない部類の行事だ。

 他家へ行った者でも帰って来る――ので、当然、風祭家へ嫁に行った伯母・幸子ゆきこもやって来る。

 相変わらずの美貌であったが、少しやつれたように思えた。血縁の変化には敏感な父がすぐさま気付き顔を顰めたので、幸子は「夏バテ気味なのよね」と笑顔でさらっと嘘をつき、龍治も「あぁ、今年は特に暑いですからね」とフォローに回った。風祭家を守る為の必死の努力を、自分たちのせいで無に帰す訳には行くまい。

 毎年幸子は、子供達の中で娘の眞由梨だけは連れて来ていた。それは眞由梨が望んだからであり、祖父・幸治郎こうじろうの希望でもあったからだ。

 しかし、今年は来なかった。当然だと思う。今龍治と顔を合わせるのは、彼女にとって苦痛でしかないだろう。

 故に幸子一人だったのだが、祖父は寂しそうにしていた。


「眞由梨は来てないのかい?」


 祖父は五人の孫を全員可愛がっているが、祖母によく似てるらしい龍治と、唯一の孫娘である眞由梨を特に溺愛しているのだ。

 祖父の幸治郎は普段日本にいない。世界各地を飛び回り友人知人と交友を深めていた。その為たまに日本へ帰ってくると、龍治と眞由梨に会いたがるのだ。

 幸治郎は既に隠居した身とは云え、綾小路家最高位である事に変わりない。友人知人も各国の要人である事が多かった。祖父が「遊びに来たよ」と訪ねるだけで綾小路家の利になるのだ。外国とのパイプは大事な財産である。

 そんな龍治の祖父は、父・治之はるゆきがそのまま年を取ったような外見をしている。

 白髪交じりの髪を撫でつけた初老の紳士。日本人の老人世代にしては背が高く細身でスラっとしていて、シルクハットとステッキが似合いそうな人だった。

 最も本人は和装する事を好むので――本日も藍鉄色の渋い長着に銀鼠ぎんねずの袴、家紋入りの瑠璃紺るりこんの羽織りがよく似合っている――、洋装は外国のパーティに出る時くらいか。最近では外国でも、相手から望まれて和装をする事が増えたらしいが。

 外国の日本ブームがこんな所にまで影響している。


「すみません、お父様。眞由梨はこの暑さで体調を崩してしまって」

「そうか……。幸子も気をつけなさい。アナスタシアの血なのか、お前たちは暑さに弱いから」


 祖父が痛ましそうな顔をして云う。自身の父から労わりの言葉を貰い、幸子は少し苦笑気味にお礼を云った。事実は違うのだから、嘘をついている心苦しさもあるのだろう。


 祖父が口にした名前、アナスタシア――龍治の祖母の事である。

 曾祖父がロシアに渡った際に「是非とも息子の嫁に」と望んだ女性ひと。若い頃の姿は肖像画でしか知らないが、孫の目から見ても寒気がするほど美しい方だった。

 絵の中の祖母は、輝くように力強い顔で笑っているのに、容姿は雪で作った花のように儚げだった。印象的なのは、緩く波打ち腰まで届く銀の髪と、長い睫毛に彩られた切れ長い蒼の瞳。

 ――その色を忠実に引き継いだのは、子孫の中で龍治だけだった。

 意外な事に、祖母の若い頃の姿は肖像画にしかない。あの頃にも白黒とは云え写真があったのに、だ。祖母がやたらと写真を嫌ったせいらしい。祖父は妻の美しい姿を残したい一心でなんとか説得し、肖像画だけは了承して貰ったとか。

 だから祖母の写真は一枚も無い――訳ではない。どう云う心境の変化か、龍治が生まれてからは気にしなくなったらしいのだ。

 だから、龍治と一緒に写った写真だけは山とある。アルバム何十冊分あるのか数えるのが億劫になるくらいある。写真撮影の許可が出た事を喜んだ祖父が撮りまくったそうだ。

 その写真の中で祖母は――肖像画より老いていたけれど美しく、赤ん坊の龍治を抱いて、最上の幸せを感じてるような顔をしていた。


「龍治も気を付けなさい。いくら暑さに強いと云っても、油断は禁物だよ」

「はい、お祖父様」


 そんな祖母は、極寒の国ロシア生まれの影響なのか、寒さに強く暑さに弱かったらしい。父も伯母たちもその体質を引き継いだのか同じだった。アナスタシアの血筋の中で、龍治だけが暑さに強くて寒さに弱かった。個人差と云う奴だろうか。

 ちなみに、母・竜貴は山の手のお嬢様なのにどちらに対しても強い。羨ましい限りである。

 龍治の素直な返事に、祖父はニコニコと嬉しそうな笑顔を浮かべた。愛しい妻似の孫が可愛くて仕方ないらしい。

 似てると云っても、龍治からすると色素だけだろ、と思うのだが。顔の作りはどう見ても母似だ。

 しかし、祖母と会った事のある人たちからは、一度も母に似ていると云われていない。

 もしかして外見以外の、例えば雰囲気とかについて云われているのかな、と思った事もある。しかし、確かめるすべはあれど、納得出来る当てはなかった。

 最早龍治にとって祖母は、平面かみの中で笑う美しい人でしかないからだ。会う事は叶わない。人の口にしかのぼらない、お伽噺のお姫様と一緒だった。

 そんな人に似てる似てると云われて、強固に反論する気は起きなかったが、納得も出来ずにいる。


「お父様、今回はいつまで滞在なさるご予定ですの?」

「うん、このまま龍治の誕生日と正月を迎えたい所なんだけど、英国イギリスからお誘いが来ていてね。九月にはロンドンへ渡るよ」

「まぁ、ロンドンですか。羨ましいですわ」

「古い友人からの招待でね。その後もヨーロッパを回る事になりそうだ。でもお前の誕生日には帰って来るからね、龍治」

「はい、お待ちしています」


 一線を退いても各地で引っ張りダコな祖父に微笑みながら、龍治は頷いた。

 龍治の誕生日は十二月二十五日のクリスマスだ。しかし毎年、綾小路家ではクリスマスより龍治の誕生日が優先されている。

 一応、二十四日のイヴにクリスマスパーティ的な事はやるが、次の日の誕生日パーティに比べれば地味である。

 正しいと云えば正しい姿か。そもそもクリスマスは異国の宗教的な祭りで、日本ではそれにかこつけたお祭り騒ぎに過ぎない。息子の誕生日を優先させる方が、親として正しい選択かも知れない。

 龍治もクリスチャンではないので、クリスマスに拘りはない。ただ家族以外の関係者にも龍治の誕生日を優先させるのは心苦しかった。

 クリスマスは家族や恋人で楽しむ日なのに、龍治のせいで他人の誕生日を祝わなければいけないのだから。

 ゼンさんはどうだったか――と検索しようとして、止めた。そしていつもならざわりと動いて何かしらの情報を提示するゼンさんの記憶も、沈黙を守っている。

 キャンプ以降――つまり“あの夢”を見てから、龍治も腑抜ふぬけた醜態をさらしているが、ゼンさんの記憶の方も似たような状態だった。

 だんまりを決め込み、揺らぎも騒ぎもしない。静寂を保って、ただ脳に居座っている。龍治の事を励ましも叱責もしない、慰めもしない。ただ、そこにあるだけだった。

 見限られたのか、それとも、ゼンさんの方も決まりが悪いのか。龍治にはわからない。

 ただ龍治自身が、彼女の記憶に触れるのを恐れるようになってしまった事は、確かだった。


(また、あんなものを見るのは、ごめんだ)


 ようは、怖気づいているのだ。臆病風に吹かれて、自分の頭の中から逃げたがっている。

 ――とんだ腰抜けだ。

 一番の問題は、自分の無様さを理解しているのに、解決しようとしない姿勢だけれど。


「……」


 溜め息を一度ついて、ついでに頭をからっぽにする。無心になるのが得意な小学生とかどうなのだろうと雑念がよぎるが、それすらも消してから、改めて祖父を見上げた。

 祖父は優しく微笑んでいる。龍治が可愛くて仕方ないのだろう。伸ばされた手は、銀髪を優しく撫でて来る。


「龍治、お盆が終わったら、どこかへ一緒に出かけようか。お前の好きな所へ行こう」

「俺、今は工場見学にハマってるんですけど、いいですか?」

「へぇ、面白そうだね」


 大らかに笑う祖父に、龍治も笑った。

 この人、まごのやる事ならなんでも許すんじゃないかな、と思いながら。

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