10.キャンプ二日目(莫迦な夢見て悪夢に嘆く)-3
パチリと目を開く。部屋は暗く、天井はぼんやりとしか見えない。足元を僅かに照らす間接照明だけが光源で、まだ夜である事を示していた。
龍治は胃からせり上がって来るものを耐えながら、ゆっくりと起きあがる。極力音を立てないようにしてトイレへと向かった。多分と云うか確実に、柾輝は気付いて起きるだろうが、それでも気を使ってしまう自分に少し笑いそうになった。
「……っ」
トイレに入って鍵をかける。そして、便器に向かって耐えていたモノをぶちまけた。
夕食は当の昔に消化され、次の器官へ移っていたのだろう。吐き出したものは
次いで出たのは激しい咳だった。刺々しい咳と痛みに自分の咽喉が傷付いている事を知る。声が掠れて出なかったらどうしようか。また周りを心配させてしまうなと、今はどうでもいい事を考えてしまう。
生理的に滲んだ涙が、ついには雫となって落ちる。一度流れると止まらなくて、龍治は無言で泣いた。
(なんでだよ)
水と胃液と混じり合って行く涙を見届けながら、どうしようもない疑問を抱く。
(なんで、“今”、あんなものを見せるんだよッ!)
そうして、ぶつけようのない怒りを抱く。
どうしようもないだろう。前世の自分に怒っても、どうにもなりはしない。ゼンさんが見せたと云うならば、それは必要な事だったのだと納得する以外ない。
――しかし、悪夢だった。酷い夢だった。
虫食いになっていた眞由梨との思い出と、“眞由梨がなんなのかと云う答え”と。
それを飲みこめと云うのは、龍治の精神にとって酷な事だった。
(俺は云ったんだ。眞由梨に、酷い言葉で、嫁にしてやるって)
眞由梨は嘘なんてついてなかった。ただ、あの残酷な言葉を、優しい言葉として記憶しただけで。
それは自己防衛だったのだろうか。年を経れば気付く悪辣な言葉を無意識下で改変させて、
ならば眞由梨も、なんて愚かな事をしたのか。
(見放せよあんな糞野郎! ただの莫迦じゃねーか! なんで一途に想ってんだよッ!)
その答えを、ゼンさんの
ぶわりと大量の涙が溢れ出て、視界が歪んだ。鼻の奥までツンとして、最悪な気分になる。
「――龍治様?」
「ッ!」
小さくドアをノックされ、呼びかけられる。声は柾輝のものだった。
「如何なさいました? 具合でも……」
「なんでもないっ」
「りゅ」
「うるさい……っ!」
凶暴な気持ちになって、心配してくれている柾輝を拒絶する。
柾輝が息を飲む気配がした。普段ならそこで罪悪感が芽生えて謝るはずなのに、龍治は無言を貫く。涙と荒い呼吸が止まらない。最悪に惨めな気分だ。
「龍治様」
「……っう、……ぃ……」
「出てきて下さい。お願いですから」
「うる、さい……!」
「お願いします、龍治様、」
「うるさいっ!」
ドアを思い切り殴る。ガツンと喧しい音がして、柾輝が黙った。
「……ぅ、……」
叫びたくなるのを耐える。柾輝だけでなく玲二まで起こすのが厭だった。この惨めな自分を、これ以上他人に晒したくない。それだけの意地で龍治は声を噛み殺した。
どれだけの間、沈黙していただろう。龍治は鼻をすすって、手の甲で乱暴に口元を拭うとドアの鍵を開けた。すぐに外からドアが開く。そこには勿論、柾輝が立っていて。柾輝は真っ青な顔で龍治を見下ろしていた。
「りゅう、じ、さま」
「……」
龍治は無言で立ちあがると、柾輝を押しのけて洗面台へ向かった。
酸に支配された口を
――莫迦だな、と思う。こんな時にまで、世話役の仕事を全うしようとするなんて。
受け取ったタオルで顔をふく。安堵の気配がして、どうしようもなく腹が立ったからそのタオルを投げつけた。柔らかなそれはぶつけられた所で痛くなどあるまい。それでも視界にある柾輝の顔は、酷く傷付いた顔をしていた。
その顔を見て、自分の心臓を掻き毟りたい衝動に駆られる。自分は何をしているのだろう。そんな事を思って、でも、心は落ち着かない。
(……厭だ)
思い出す。ゼンさんの記憶。見せられた夢を、改めて記憶から引き出す。
楽しげに会話をする声優たち。それを喜んで聞くゼンさんの感情の波。付箋まみれの設定資料集。
声優たちはゲームについて語り合う。
花蓮の扱いが酷い、だがそこがいい、花蓮かわいいよ花蓮、柾輝ってどうなの、いやあれはあれで、百八十度回って素敵じゃね、龍治こそどうなんだ、あいつはアレだな、そこが愛しいんじゃないか、ヒロイン最強、わかる、ヒロインがイケメン、誰得なんだ。
取りとめない会話。でも楽しんで話してるのが伝わってきて、ゼンさんの顔はきっとにこにこしてただろう。
そうして、ふと変わった会話。『龍治』のトゥルーエンドに至るルートについて。
――『龍治』のトゥルーエンドルート、ボツキャラが居たんですよ――
――設定資料集にも載って無いの。スタッフからたまたま聞いちゃって――
――『花蓮』を下した後に出てくる、真の婚約者がいたんです!――
――でも『龍治』ばっか贔屓しすぎだろって事で、ボツになったそうで――
――『龍治』の親戚だったらしくて、後は簡単な外見設定しか決まってなかったって――
――洋風な『花蓮』とは逆に、和風美人だったらしいですよー――
――出してくれても良かったのに。勿体ないですねぇ――
楽しげな声。それはそうだ。彼らにとっては、自分達が演じたゲームの話題に過ぎない。
けれど龍治にとって、それは泣き叫びたくなるほど残酷な事実だった。
なんで、まさか、とそんな言葉が頭を巡る。けれど「考えてみればそうか」と納得出来るからそれがまた厭だった。
(厭だ……こんなのは……)
眞由梨の自儘な態度も、龍治への執着も、花蓮に対する悪意も、全て納得が行く。
(身代り、代理、違う――……穴埋めの、“成り変わり”、だ)
龍治が“まとも”になったから、眞由梨が我が侭になって周囲を翻弄した。
『龍治』の“真の婚約者”だったから、あそこまで思い込んで執着した。
花蓮が“ヒロインのように”愛されたから、眞由梨が代わりに憎しみを背負った。
そう云う事なのだと、納得してしまうのが厭だった。
莫迦らしいと笑い飛ばせないのが、厭で、厭で。だから龍治は泣いたのだ。そんなの厭だと思っても否定材料が見つけられなくて、そんな自分が情けなくて。
(厭だ。厭だ。ここはゲームじゃない。俺は『綾小路龍治』じゃない。俺は、だって、俺は――)
自分は―――――“なんだった”?
目を見開く。愕然として、立ち尽くす。悲鳴を上げそうになる。また、涙が出そうになった。
けれどそれより先に、柾輝が泣いた。驚いて、呼吸と一緒に涙も悲鳴も引っ込んだ。「なんで、どうして」と混乱する龍治を、柾輝がぎゅぅと強く抱きしめて来る。痛いくらいに抱きしめて来て、しくしくと泣き出す。
同じくらいの身長だから、龍治の顔のすぐ側に柾輝の顔もあって。柾輝の涙で濡れて行く頬を、冷たく感じた。
「……なんで泣いてんの」
「龍治様が、哀しそう、で……」
「苦しいから、離せよ」
「いやです……っ」
「……」
ふと思う。
柾輝から見て、今の自分はどんな主なのだろうかと。
(きっと、厭な奴だ。吐いて、泣いて、八つ当たりする、意味不明で駄目な主)
駄目すぎる。そう思って、息を細く吐く。
柾輝はまだ龍治を抱きしめて泣いている。莫迦だなぁ、と思う。こんな奴のためになんで泣くのだろう。どうして、守るように抱きしめて来るのだろう。
(莫迦だなぁ)
そう思ったけれど、振り払う気力もなくて。
龍治はしばらくの間、柾輝の腕の中で大人しくしていた。抱き返す事も、柾輝を宥める事もしなかった。ただ、そこに居ただけだった。
もう自分の涙は乾いているのに、頬は、柾輝の涙でずっと濡れ続けていた。
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