1.綾小路龍治の朝風景。-1

「――龍治様、龍治様。お時間です、起きて下さい」


 柔らかな声が降って来る。体を丁寧に揺すられる。――「あぁいつもの朝だ」と自覚して、綾小路龍治あやのこうじりゅうじはゆっくりと瞼を開いた。

 長く閉じていたため視界はぼやけている。徐々に景色がはっきりしてくると、見飽きた天井と見慣れた幼馴染兼世話役――岡崎柾輝おかざきまさきの穏やかな笑顔が見えた。目を開いた龍治に、柾輝はますます笑みを深くする。


「おはようございます、龍治様。今日は良い天気ですよ」

「……うん、おはよう、柾輝。晴れて良かった」


 部屋はまだ、少し暗い。十歳の子供の部屋とは思えないほど広いのに、カーテンが一つしか開いてないからだ。目覚めたばかりの目を痛めないための配慮はいつもの事。

 龍治は渡された温かい蒸しタオルで顔をゆっくりと拭う。熱めの玉露入り湯のみを拭い終わったタオルと交換で受け取って、ゆっくりとすすった。

 朝一番の茶を龍治が飲んでいる間に、柾輝と三人の使用人が部屋中全てのカーテンと窓を開けて回る。いっきに明るくなった部屋に、龍治は僅かに目を細めた。

 広い部屋だ。子供が十数人で元気に遊び回ろうと、何も問題ないほどに広い。その部屋のほとんどはフローリングで、必要な箇所に絨毯が敷かれていた。龍治の寝ている所だけは畳である。だけ、とは云っても十畳は敷き詰められていて、その中心に布団が敷いてある状態だった。


(フローリングの部屋の一部だけが畳って、日本かぶれのフランス人みたいだなぁ)


 龍治はよく思う。自分が望んだものだから、別に文句など無いが。

 茶を飲み終わる頃、計ったように――いや、事実計っているのだろうが――柾輝と使用人達が改めて龍治の前へ並ぶ。

 柾輝はいつもと同じく、既に『瑛光えいこう学園』初等科の制服をかっちりと着込み、朝の準備は終わってる状態だ。他の使用人達もお仕着せを正しく着こなし、一部の隙も無い姿であった。

 深々と頭を下げる四人に、龍治は見えていなくとも笑いかける。――相手に顔が見えていなくても、顔が笑っている方が優しい声が出るのだと、前世の記憶で学んでいた。


「おはよう、みんな。今日も一日頼むな」

「はい、龍治様」

(堅苦しいなぁ……)


 基本的に龍治の心配りは空回りしている気がするが、気にしない事にしている。いつもの事だ。


「龍治様。本日の朝食は旦那様が御一緒ですので、食堂で摂っていただきたいと連絡が来ております」

「ん、わかった。珍しいな、父さんが朝から一緒なんて」


 布団から這い出ると、柾輝がさっとガウンを着せて来る。春先とは云え、まだまだ冷えるからだろう。確かに寝巻一枚では、少々肌寒いかも知れない。ありがたく柾輝の好意を着込む。


(ドテラが着たいと云ったら怒られるんだろうか……)

「学年が上がられて最初の一日ですから、是非にとスケジュールを調整されたそうで」

「そっか。父さん、細かい気配り出来るようになったなぁ」


 龍治はケラケラと軽快に笑うが、柾輝は苦笑している。雇い主を笑い飛ばすのは流石に憚られるに違いない。それは分かっているが、つい龍治は憎まれ口を叩いてしまうのだった。

 柾輝を連れて部屋にある洗面所へ向かう。ついて来るのは柾輝だけで、他の使用人は布団をたたむなり着替えを用意するなり、別の仕事をこなしていた。いつも通りの役割分担である。

 洗面所もいつもの通り、花の香りがさわやかに漂い、洗面台などはピカピカに磨きあげられていた。昨日の汚れが残っている事などありえない、高級ホテルの如く清掃されている。

 大きな鏡が備え付けられた洗面台の前に、袖をめくりながら龍治が座った。柾輝がすぐに歯ブラシへ歯磨き粉をつけて手渡して来た。


(……あぁ慣れたとも、ここ数年で慣れたとも!)


 どこかへ云い訳をしつつ龍治は礼とともにそれを受け取り、歯磨きを開始した。その間に柾輝はコップに水を注ぎ――水道水ではなく、当然のようにミネラルウォーターである。歯を漱ぐ用なのに――、洗顔用石鹸を手に取ってくしゅくしゅと泡立て始めた。


(何から何まで至れり尽くせり……)


 ここまで何もかも他人の手が入ると駄目人間になるだろう、と龍治は思うのだが、そう思うのは自分だけのようだ。むしろ自分でしようとすると「龍治様にそんな事させる訳には!」とストップがかかる。

 贅沢な物云いかも知れないが、もう少し放っておいて欲しいと常々思っていた。

 せめて中学生になったら……と考えながら、口をすすぐ。中学生になろうが高校生になろうが一切変化なしなど、それは恐ろしいので考えないようにする。


「どうぞ」

「ありがと」


 そう云って手の上にもふりと乗せられたのは、洗顔用石鹸の泡だ。もったりしたクリームの感触が気持ちよい。それを顔にあてせっせと洗う。ついでにこっそり、美顔マッサージなどもしてみる。知識にあるからやっていた。女性は大変だな、と思いながら。

 ふかふかのタオルで顔を拭くと、今度は柾輝の手で髪をセットされる。とは云っても、結わえるほど長くない髪は適度に梳かれ、整えられるだけだ。

 婚約者の東堂院花蓮とうどういんかれんなら、あの長く豊かな髪を様々な形へセットされるのだろう。今日はどんな髪型だろうかと、いつもながら楽しみになる。


「―――♪」


 本人が気付いているかどうか知らないが、龍治の髪を整える柾輝は毎回楽しそうだ。僅かに鼻歌まで聞こえてくる。

 他人の髪をいじるって楽しいのだろうか、と思ったが、そう云えば花蓮の髪を撫でたり梳いたりするのは楽しいなと気付く。人の髪をさわりたくなるのは、割と共通認識の可能性。

 セットが終わり洗面所から出れば、布団が片付けられた畳みの上に着替えが置いてあった。諸々の仕事が終わった使用人達は、出入り口のドア付近で直立姿勢で待っている。

 さっさと着替えよう――と思うが、一人でさくさく着替えられないのがお坊ちゃまと云うものだ。

 柾輝が一言断りを入れてからガウンを脱がせ、和装の寝巻の帯を解く。人前でパンツ一丁にされるのも慣れた。慣れたと、思う。


(いや、こればっかりはゼンさんの羞恥心が俺を襲う……!)


 上流階級では、人に着替えを手伝ってもらうのは割と当たり前の事だ。一人で着れない服もある。女性のドレスなどは、一人で着るには当然適していない。人前――世話をする人間の前に肌をさらすなど当たり前の事すぎて、恥ずかしいと思う方がおかしいくらいだ。

 しかし、前世の記憶があり、その記憶が一般女性である龍治は、どうしても羞恥を覚えずにはいられなかった。


「龍治様。今日の朝食はオムレツが出るのですが、具は何が宜しいですか?」

「んー……。ベーコンとチーズ。とろっとろがいいな」

「はい、かしこまりました」


 龍治の言葉に、使用人の一人が黙礼をしてさっと静かに部屋から出て行く。厨房へ龍治の要望と共に、じきに食堂へ向かう旨を伝えに行ったのだ。


「柾輝は何にしたんだ?」

「龍治様と同じですよ」

「……ふーん」


 柾輝の返事に、龍治は僅かに唇を尖らせた。

 柾輝はいつもこうなのだ。己の好みなどの主張はせず、ほぼ全てを龍治に合わせる。それが岡崎家流世話役の心得なのかも知れないが、龍治としてはつまらない。違うものを頼んで分け合うのが楽しい、とゼンさんの記憶が云っている。特にケーキとか。パフェとか。タルトとか。甘味ばかりだった。

 女性は甘いもの好きが多いと、つくづくと思う。龍治も好きだが、バイキングやらビュッフェにまで行って食べようとは思わない。一度くらい、経験として行ってみようかとは考えているけれど。

 柾輝の手で初等科の制服を着る。使用人の一人が、龍治には大きすぎる姿見鏡を前に持って来た。

 ブレザー型の青色の制服。中のワイシャツは黒・白・灰から選べるのだが、柾輝は黒を好んで着せて来るので今日も黒だった。柾輝の方は主に白を着ている事が多い。

 ネクタイは今日からの学年である、五年生の臙脂色だ。下はブレザーと同色の短パン。膝下までの靴下は、シャツと合わせて黒色だ。今は室内なので履いていないが、靴はブラウンのローファーである。走りにくくて厭なのだが、学校指定なので仕方がない。


(……ゼンさんが見たら、「短パンショタッ子キタコレ!」とか云いそうだよな……)


 あの人の守備範囲の広さは、我が前世ながら呆れてしまう。ショタもロリも大好物とか、どうなのだろうか。「Yesロリショタ! Noタッチ!」とか云ってたようだから、まぁセーフなのかも知れないが、龍治的に云えばアウトだ。

「ペドじゃないからセーフだよ!」と記憶が云っている気がするが無視である。まず、そのペドがなんであるかを詳しく知りたくない龍治だった。

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