210 『すぐ逃げて』の合図

「キスでもしてきました?」


 事務所経由で先に下りていた田中が、不躾ぶしつけなセリフで京子を迎えた。

 すぐ後ろでは護兵ごへいがガラス扉の前を守っていて、京子は「ちょっと!」とボリュームを下げるよう促す。


「してません!」


 門を出てからはっきりと事実を伝えて、京子はキッと田中を睨んだ。そして後ろ髪を引かれるように背後のアルガスを振り返る。

 綾斗あやとから呼び捨てにされたことに舞い上がっていたが、さっきは実際にそんなシチュエーションだったかもしれない。


「して来れば良かったって顔しなくて良いですよ。キスなんて、お互い生きてりゃなんぼだってできるんですから」

「う、うん」


 田中は最初のデスクルームでの印象より大分軽い。これが彼のなのだろうか。

 横に並んで歩きながら、彼は小さく鼻歌を口ずさむ。

 東京駅までは一緒に行って、電車を降りる所から別れようという作戦だ。今回彼の仕事は『尾行』だが、少し話がしたいと思った。

 そっと見上げる彼の顔は、桃也とうやと同じくらいの高さにある。


「田中さんて、今は本部に居るんですか?」

「そうですね。書類整理からシステムやら、雑用ばっかりですけど」

「けど──諜報員スパイなんですよね」

「まぁそういう事です。俺結構前から本部に居ますけど、初対面って感じですか?」

「顔は分かってたつもりなんだけど。話した事はないよね?」


 今年のバレンタインにチョコを配った時、彼はいなかった筈だ。

 把握できていなかった事を申し訳なく思うが、田中は「良かった」と何故か笑顔を見せる。


「スパイは特出とくしゅつして目立っちゃいけない。ポーカーフェイスも基本です。さっきの京子さんみたいに怖い顔してたら、警戒されちゃいますよ」

「私、怖い顔してる?」


 まるで自覚のない所を指摘されて、京子は片手で頬を抑えた。


「してます。今日は偶然を装って敵に会いに行くんでしょ? だったら駅へ買い物にでも行くつもりで自然にしてて下さい」

「わかった」


 彼が見せる笑顔を真似してみるが、頬が固くなっているのは自分でも分かった。


「向こうでのこと考えると、色々考えちゃって。ポーカーフェイスって難しいね」

「今はあんまり難しいこと考えないで。折角二人で居るんだし、俺とデートしてるとでも思ってればいいですよ」

「デート?」

「だって、私服の男女が二人で歩く理由なんてそんなもんでしょ? 捜査なんて演技できてなんぼですからね?」


 理屈は納得できるが、ほぼ初対面の彼におかしな緊張さえ込み上げてくる。

 

「またそうやって変な顔になる。俺、年下には興味ないんで安心して下さい」

「──揶揄からかってる?」

「そんなつもりはないですよ。俺は真面目です」


 田中は企むような眼をして、カラカラと笑った。


「それより、いずれ分かる事だと思いますが、今日会う相手の事話しておきますか? 俺、結構情報持ってますけど」

「ううん、彰人あきひとくんにも言ったけど、本人から聞くまでは色々入れないようにしようと思ってる」

「そうなんですか?」

「情が移るのは嫌だなって。けど、知る時が来るなら覚悟しとけって言われた。つまりそういう事なんでしょ?」


 忍の過去を知ってしまった時、彼を敵だと思うことが出来るのだろうか。

 忍がアルガスを批判するに至った経緯は深いのだと聞いている。田中も「ですね」とはっきり答えた。


「過去がどうだって、罪を免れる理由にはなりませんから」

「そう──だよね」

「そうですよ。あと向こうでの合図を決めておきましょうか」

「合図?」

「ただの尾行では済まさないって事ですよ。護衛は出来なくても、本部への連絡なら任せて下さい」

「そっか、ありがとう」


 急な提案に首を傾げながら、京子は右手を上へ曲げて見せた。


「じゃあ、こうしたら本部に連絡して。あと、手を振ったらこっちへ来て、かな」

「了解しました」


 田中は京子の動作を繰り返して「OK」と頷く。


「あと、もう一つ追加で。相手は勘の良い人だと思うの。だから、こうやってピンと伸ばしたら尾行を止めて貰っていい?」

「良いんですか?」

「うん。すぐ逃げての合図だよ」


 もし忍に田中の事がバレてしまえば、彼の命に係わる事態になってしまうかもしれない。佳祐を簡単に殺してしまうような彼は、何をするか分からない。


「お願いね」


 京子は立ち止まり、戸惑う彼に訴えた。






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