209 対抗心

「田中です、宜しくお願いします」


 京子がしのぶとの接触を図って東京駅へ行くと言った二日後の昼過ぎ、出発を前にした本部のデスクルームに一人の男がやってきた。

 重めの前髪を揺らしながら人懐こい目で微笑む彼は、京子より若干年上に見えるスラリと背の高い細身の男だ。私服姿の京子に合わせて、彼もまたラフな格好をしている。

 彼は本部の施設員で知らない顔ではないが、普段何の仕事をしているか把握はしていない。面と向かって話すのは初めてだ。


 「宜しくお願いします」と伺うように頭を下げる京子の横で、綾斗が「今日はありがとうございます」と続けた。

 二日前、綾斗が相談したいと言っていた相手は彰人あきひとだったらしい。


「今回の事を話したら、田中さんをよこしてくれたんです。諜報員スパイとして優秀だって。少し前までサメジマ製薬に潜入捜査してたんですよね?」

「はい。尾行びこうなら任せて下さい」


 胸を張る田中をまじまじと見上げて、京子は「へぇ」と目を丸くする。

 サメジマ製薬と言えば、ホルスの高橋ようが居た会社だ。

 田中はアルガスで施設員として働きながら、監察かんさつの仕事も手伝っているのだと自己紹介した。


「心強いですね」

「俺はこっそり付いて行くだけなんで、京子さんは気にせずに仕事してて下さい」

「分かりました」


 東京駅で戦闘が起きるわけではないだろうが、正体がバレている今は向こうも何をして来るか分からない。もし何か起きたら、という事態を想定して尾行と連絡役に彼が選ばれたという次第だ。


「京子さんを頼みます」

「はい。じゃ俺、事務所回るんで先に下りますね。ゆっくり来て貰って構いません」


 ピッと敬礼して田中は部屋を出て行く。

 いよいよだと深呼吸する京子に、綾斗が「気を付けて下さいね」と念を押した。


「うん。田中さんの事、ありがとね」

「薬の事もあるし、空間隔離くうかんかくりの事もある。無茶して深追いしすぎないように」

「気を付ける」


 今回の話をしてから、綾斗の不安を垣間見るシーンが幾度かあった。

 忍を警戒すべきだとは分かっているが、九州で感じた彼への恐怖が時間とともに薄れてしまっているのは事実だ。

 綾斗はそんな気持ちを察したのだろう。


 「ごめんね」と俯いた京子の腕を、綾斗がそっとつかんだ。


「京子」


 言い聞かせるように呟いたその言葉があまりにも突然で、京子は「何?」と普通に返してしまう。

 けれどすぐに耳慣れない音だと気付いた。


「え?」


 気不味きまずそうにほお紅潮こうちょうさせる綾斗に、京子はぱっくりと口を開けたまま硬直する。


「無事に帰って来て」

「う、うん」


 この間美弦みつると話をして、京子は自分から彼にそう呼んで欲しいと伝える選択をしなかった。

 だから唐突に名前で呼ばれて混乱してしまう。こんなの反則だ。


「綾斗……?」

「あの人もそう呼んでたでしょ? 対抗心だよ」

「あぁ──」


 忍の事だ。特に気にもしていなかったが、彼には最初からそう呼ばれている。他にも何人か思い当たるが、相手によって受ける印象は大分違うらしい。


「もしかして気にしてた? ごめん、別に変な関係じゃないよ?」

「当たり前でしょ。分かってるよ。ただ、俺も……こっちの方が恋人同士っぽいかなと思って。嫌?」

「嫌じゃないよ。ちょっと慣れないけど、嬉しいかも」

「なら良かった」


 安堵する綾斗の笑顔が、彼の肩で遮られる。彼の匂いがいっぱいに広がった。


「俺はここで待ってるから。くれぐれも一人で戦おうなんて無茶しないように」

「気を付ける。何もなかったらそのまま戻るから。行って来るね」


 京子はぎゅっと彼を抱き締めて、部屋を後にした。




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