143 枯渇

「ハァ、ハァ……」


 空を覆った暗雲が、地面に激しく雨を打ちつける。

 密閉された廃墟はその湿度に蒸れ、秀信ひでしなは手をついた壁に身を寄せて横の窓を少しだけ開いた。雨の匂いと涼しい風が流れて、喉の圧迫感から逃れるように息を吐き出す。


 まだ夕方だというのに部屋はだいぶ暗かった。

 奴に呼ばれてここへ入り込んだが、人の気配がまるでなく電気も通ってはいない。

 廃墟になって間もないが、もう既にマニアや冷やかしの若僧が入り込んで、マーキングと言わんばかりの下手な落書きがそこら中に残してあった。管理元は大手だけれど、セキュリティはザルだ。


 雨でにじんだ窓に遠くの町明かりが見えて、秀信は全身を擦り付けるように足元へ落ちる。

 限界だった。前回薬を飲んでから、もう数週間経っている。

 能力の復活を望んで飲み始めた薬は最初こそ画期的なものだと称賛したが、少しずつ身体をむしばんでいく。そういうものだろうと予感はしていたが、気付いた時には後戻りできない程に症状が進行していた。


「早く来いよ……」


 沈むように目を閉じると、連絡用の携帯電話が音を立てる。今の時代には古い、二つ折りタイプのものだ。

 来た、と目を見開き「はい」と乾いた返事をする。声に響いて肺が傷んだ。


『やぁ、ヒデ。まだ生きてた? 死んじゃ駄目だよ?』

生憎あいにく、死神とは仲悪いみたいなんで。それよりお前がここに来ると思ったんだがな」

『何だ俺に会いたかったの? ごめんね』

「別に」


 電話口の男は、腑抜ふぬけた声でこの状況を楽しんでいる。この人はいつもそうだ。昔から変わらない。


『釣れないな、ヒデは。それより昨日はご苦労様』

「言われた通りに……捨ててきた。お前の言った通り、警察が群がってアルガスの連中も来てたみたいだぜ」

『あぁ、それでいい。良くやったね。だから今回はいつもより多めに薬をあげるよ。その部屋に机があるだろう?』


 床を這いつくばるように立ち上がり、秀信は部屋の隅にあるスチールの机へ駆けた。急な動作に全身がダメージをこうむる。

 息を吐き出すような悲鳴に、相手の笑った音が小さく返って来た。


『そんなに慌てるなよ。一日一粒以上は駄目だからね? 苦しさが限界に来てから追加する事。こっちの在庫も無限にあるわけじゃないんだから、後に苦しむのはヒデだよ?』


 男の言葉など半分も耳に入っていない。机の引き出しを全部開いて、下段の奥にあった錠剤のシートを掴む。水なんてない。一錠をそのまま嚙み砕いて飲み込んだ。

 即効性は抜群で、胃に入った途端身体がスッと軽くなる。残りの五錠をポケットにねじ込んで、部屋の真ん中に仰向けに転がった。意識は落ち着いたが、疲労感は半端ない。

 床の埃が舞い上がってむせると、『お大事に』と緊張感のない声が手元から響く。


『バーサーカーの力は、俺たちにとっての切り札だ。発動して10分しか持たないのは残念だけど、いざって時の為に温存しておくんだよ?』

「……あぁ」

『昔3分しか戦えないヒーローがいたけど、ヒデも最高のヒーローだね』

「はぁ? 7分差は伊達じゃねぇよ」


 男は『あはは』と笑って、『そうだ』と声を上げた。


『キーダーに会ったって言ってたけど、誰だった?』

「女だ。二十歳はたち過ぎぐらいか」


 町中で気配を辿ってきた相手は、銀環ぎんかんを付けた若い女だった。自分がアルガスに居た頃は女のキーダーなんて大分年上が居ただけだ。


『へぇ。それは良いね』


 男は楽しそうに笑って、『じゃあね』と通話を切る。

 命なんていつ無くなっても良いと思っているのに、まだその時は来ない。死ぬのは怖いと思わないのに、薬の効果が切れた時のダメージは苦しくてたまらなかった。そうやって相手の主導権で生かされている実感はある。


 ──『俺は死にたくありません。一日でも先の未来を見たいんです』


 昔、そんなことを言っていた男が居た。

 昨日キーダーに会ってから、昔の事ばかり思い出す。スタートはみんな同じだった筈なのに、隕石が落ちる少し前から運命は各々に回り続けている。


「こんなに長生きするつもりはなかったんだけどな」


 銀環を外して辿り着いたこの場所で潔く死ねたら──そう思っていたのに、気付けはもう20年以上経っていた。


「死に場を与えてくれよ、宇波うなみさん……」


 太陽が落ち、部屋は闇に包まれた。




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