144 アルガスの諜報員

 地下鉄を降りて地上へ出た所でスマホが鳴る。相手は京子だ。


「うん、データは貰ったよ。今確認したとこ。だろうなって結果だったね」

『でしょ? それ以外に考えられないもんね。さっき森脇もりわきさんから連絡あって、すぐ彰人あきひとくんに知らせなきゃと思ったの』

「ありがとう、京子ちゃん。そろそろだと思ってたけど、グッドタイミング。助かるよ」


 ビル風にあおられた髪をかき上げて、彰人は「またね」と切ったスマホをジャケットの内ポケットへしまう。


 京子からの連絡は、先日東京湾に上がった水死体の検死結果だ。現場確認に行った京子の元へ届けられるだろうその情報を、入り次第伝えて欲しいと頼んであった。

 結果は予想通りの黒だ。

 死体からは許容量を超えた薬物反応が出て、あるだろうと予想した項目にもチェックが入っている。


「京子ちゃんの読みが正しかった訳だ」


 気配に対する読み取りレベルもようやく上がってきたが、元々勘が良いのも彼女の強みだと思う。


「あと一つ揃えば、一歩前進って所かな」


 彰人はホッと安堵あんどした表情を鋭く締めて、ビルの並ぶ通りの奥を見据えた。

 6月に入ると同時に梅雨入りし、ここのところはずっと雨が降っていた。久しぶりの晴れ間は雲が多めで、丸の内のオフィス街はまだまだジャケット姿が目立つ。

 適当な会社員を装ってスーツ姿で目指すのは、サメジマ製薬の自社ビルだ。


 内部に送り込んでいる諜報員ちょうほういんから、今日そこに専務が来ると情報を得ている。彼からの報告を兼ねて、彰人は待ち合わせ場所に待機した。


「アイスコーヒーを下さい。ブラックで」


 軽快なジャズの流れるコーヒーショップは、サメジマ製薬のビルのすぐ向かいにある。

 「かしこまりました」と営業スマイルを広げた若い女子店員は、彰人を見てハッとほおを染めるが、当の本人は特に気にする事もなくプラスチックのタンブラーを手にテラス席の端へ移動した。久しぶりに雨が上がって、外も半分ほど埋まっている。


 ビルが良く見える場所だ。

 聞いていた時間と腕時計を見合わせてコーヒーを飲むと、


「田中です。失礼します」


 注文カウンターで彰人の数人後ろに並んでいた男が、トレイを手にテーブルの反対側に腰を下ろした。

 お互いに合わせる事のない視線をビルに向け、彰人が「お疲れ様」と彼をねぎらう。

 田中と名乗る彼は彰人よりも少し年上で、フローズンタイプのコーヒーに乗った大盛りの生クリームをスプーンで頬張りながら『報告』を始めた。


「サメジマ製薬はHPなどで紹介されている通りの世襲制です。専務の鈴木春隆も歴とした取締役の長男で、二年前に地方の大学を卒業してすぐ入社してます。特筆するような問題は今のところありませんね」

「そうか。あ、来たみたいだよ」


 雲に隠れていた太陽があらわになって、真上にあったパラソルがテーブルにくっきりと影を落とす。

 手にしていたカップを置き、彰人はビルの前に滑り込んだ白い高級車に目を細めた。少し遠いが、ハッキリと見えなくても問題はない。


 後部座席から下りたスーツ姿の彼は、勤勉で真面目だという前情報の通り『好青年』という文字がしっくりくる長身の男だ。会社を継ぐという立場にあって『専務』という肩書まで持つがまだまだ若い。


「あの年齢が背負うには重すぎる組織だと思うけど。桃也とうやの事もあるし、アリなのかな」


 身近に似た境遇の男が居た事を思い出し、彰人がクスリと笑う。

 「どうしたんですか?」と聞かれて、「何でもないよ」と答えた。


 春隆は挨拶する運転手と幾何いくばくかの言葉を交わしてそのまま中へと入っていく。


「未来を約束されてるって感じがするね。サメジマ製薬は上がり調子だしね」

「そうですね、社内の空気もまぁ悪くない方だと思います」


 「けど」と彰人は乾いた口にコーヒーを含む。


「ここの跡取りは、元々彼じゃなかった筈だ」

緘口令かんこうれいが敷かれていて、裏付けをとるのには苦労しました。けど、大きな会社ほどボロは出やすい」

「流石。うまくいった?」


 田中は生クリームを食べきったフローズンコーヒーをズズズッとストローで飲み込んで「俺を見くびらないで下さい」と笑う。

 白い高級車が通りの奥に消えていくのを眺めながら、


「俺はアルガスの諜報員ですよ」


 田中は自信あり気に胸を張った。



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