142 「じゃあな」

 長官に呼ばれたのは一月ひとつき前の事だ。

 福岡の支部にある彼の部屋で、予想もしていなかった提案を告げられた。


 ──『これからは私の仕事を手伝って欲しい。そしていずれは君に私の後を継いでほしいんだ』


 ハッキリ言って冗談だと思った。

 サードになって数ヶ月が過ぎ、ようやく頭と体が慣れて来た所だ。監察かんさつよりも多くの機密事項を取り扱い、海外との窓口にもなるその肩書は、他のキーダーの上に立つ立場なのだと最初に言われたのは覚えている。

 けれどそれがまさか長官の後継者にと言う話だとは思いもしなかった。


「本当に俺が行っても良いんですか?」


 出発ゲートの手前で足を止め、桃也とうやは見送りの佳祐けいすけに弱音を吐く。

 長官などと言う重責じゅうせきになうことができるのだろうか。アルガスの上官たちから反対の声は殆ど上がらなかったらしいが、『大晦日の白雪しらゆき』を起こした自分が上に立つことに心からの賛同が得られるとは思えなかった。


 それでも『嫌だ』と言わなかったのは、失うものなどこれ以上何もなかったからだ。もし今も京子との仲が切れていなかったら、今度こそ誠の誘いを断っていたかもしれない。


 しかしやると決めたものの、ここに来て少しずつ溜め込んだ不安が一気に波のように押し寄せてきた。

 自分以外に相応ふさわしい人間など幾らでもいる。経験の多い佳祐こそ長官には適任ではないだろうか。


 そんな思いが顔に出たのか、佳祐は人が多く行き交う空港ロビーで「何だよ」と苦笑した。


「俺は、佳祐さんの方がって……」

「んな事ねぇって何度も言ってるだろ?」


 彼は幾ら聞いても、その理由を答えてはくれなかった。


「お前は一度決めた事に責任持てよ。その事情があったからこそ、俺はお前をサードに推薦したんだ。前を向いて生きろよ」

「……はい」

「まだ正式に決まったわけじゃねぇんだ。無理だと思ったら辞めちまえばいい。失敗なんて気にする事ねぇから、お試し期間だと思って全力でやって来いよ」

「分かりました」


 彼の真っすぐな言葉にはいつも助けられる。

 今日はこれから東京で長官との打ち合わせをしてから、明日の朝に海外へ発つ。

 よその国との会合で、アルガス長官の後継者を発表するためだ。アルガスの一部にしかまだ知られていないその事実は、今回の発表で一気に各所へ伝わるだろう。


『私は海外が苦手でね、一緒に行く事があったら通訳を頼むよ』


 この間、長官がそんな事を言っていた。ちょっと困ったようで嬉しそうな表情は、彼と初めて会った時の顔に似ていた。


「やれるだけやってきます」


 『応援する』と言った京子の笑顔が浮かんで、桃也は「馬鹿野郎」と自嘲する。

 そろそろ時間だとキャリーバッグに手を掛けた所で、佳祐が桃也の腕をドンと叩いた。


「いよいよだな。これからはちゃんとネクタイ締めるんだぞ?」

「人前に出る時は気を付けます」


 曲がったネクタイを指差されて、桃也は片手でそれを直す。


「そうだ佳祐さん。この間言ってた修司しゅうじの件、俺は賛成しますよ」


 少し前に聞かれたことをふと思い出す。軽く答えられるような話でもなく、すぐに返事することが出来なかった。

 普段から「どう思う?」と彼に意見を聞かれることは珍しくない。そうやって少しずつ色々な仕事が自分一人でもできるようになった。


 「そうか」と答えた佳祐は、ふと表情を曇らせる。


「何でこうなっちまったんだろうな」

「佳祐さん……?」


 いつもと様子が違う気がした。けれど彼はそのまま頭を振って、


「何でもねぇ。お前が長官になったら、俺の肩の力も抜けるってもんよ。いよいよ俺もお役御免だな」

「そんな事言わないで下さい」


 それが別れの言葉に聞こえて、桃也は声を強める。

 キーダーは死と隣り合わせだ。その予感を口にしたら、言霊になってしまうような気がしてならなかった。

 そんな不安をニカッとした笑顔に阻まれる。


「……佳祐さん、また会えますよね?」

「何サヨナラみたいなこと言ってんだよ。いいから行って来い」


 逆にそれを言われて、桃也は苦笑した。


「はい。じゃあ、行ってきます」

「おう、じゃあな」


 大きな掌をかざす佳祐に会釈して、桃也は彼に背を向ける。

 悪い予感と言うものは当たるもので、これが桃也と佳祐が言葉を交わす最後の時となった。




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