136 宇波さん

 東京湾に能力者の死体が上がったのと同じ日に、バスクの彼に会った事が偶然だとは思えない。

 実力行使すべきだと分かっているけれど、彼がもしも京子の思った相手──バーサーカーの松本秀信ひでしなならば、勝算が見込めない気がした。


 だからここで負けて取り逃がすよりも、何か一つでも得ることを優先させたいと考えてしまう。

 アルガスはまだまだホルスの情報が乏しい。

 一か八か、京子は対話を仕掛けた。


「今日、ここから近くの海に能力者の死体が上がりました。あれはただのバスクじゃない。私はホルスと関わってるんじゃないかと思ってます」

「ほぉ。その根拠は?」

「ホルスは、ノーマルを能力者にする薬を作ってる。それを、飲んだんじゃないかって」


 憶測でしかない言葉は、躊躇ためらいを含む。


「それがオネエサンの読みか」

「前に亡くなったキーダーは、死体から気配が感じられませんでした。けど、今日見た遺体はそれがハッキリと残ってました。私たちとは違うだろうって考えたら、行き着いたのがそこだったんです」

 

 男は噂話でも聞くような態度で、「ふぅん」と自分の腰に右手を当てた。サングラスに隠れた顔色は、相変わらず良くないように見える。


「貴方も何か薬を飲んではいませんか?」


 かつて薬を飲んだ銀次ぎんじは、修司しゅうじたちとの戦闘中に青ざめた顔で倒れ、戦闘不能になったという。

 一粒の錠剤が体に起こした変化に生死を彷徨い、彼は今も颯太そうたの所へ通っているのだ。

 男が松本ならノーマルではなくバスクだけれど、今日上がった遺体も目の前に立つ彼の様子も、銀次と共通しているように思えてしまう。


「飲んだって言ったら、どうするんだ?」

「──本当にそうなんですか?」


 試すような質問に、京子はきっと睨み返す。


「怖い顔するなよ。ノーマルを能力者にする薬を飲んだかって言うなら、俺はそんなの飲んでないよ」


 にやけ顔をぶら提げる男に、修司が横で苛立った。

 京子が「抑えて」と小さく首を振ると、「仲良いな」と男が笑う。


「アンタは一つ勘違いしてる。ホルスが作った薬は、ノーマルに能力を与えるために作られた物じゃねぇよ」

「それを貴方が知っているのなら、やっぱり……」

宇波うなみさんは元気か?」


 唐突にその名前が出て、京子はたじろいだ。

 さっき目が見えた時に出した答えを、彼の一言が肯定した気がした。ならば尚更、ここで戦闘を起こす訳にはいかない。


「貴方は──」

「くっ……」


 けれどその名前を口にする前に、男が突然胸を押さえて苦しみだしたのだ。震えた膝がガクリと落ちて、地面にうずくまる。


「ちょっと大丈夫ですか? 救急車を」

「やめろ! それより、宇波さんは──」


 言葉が最後まで続かない。必死に呼吸を繰り返して、男は肩を上下させる。

 

「長官は、元気ですよ?」

「だったら一つ真実をくれてやる。良いか? お前……たち、今俺を追わないと約束するならだ。どうする?」


 誠の無事を聞いて、彼が一瞬だけ穏やかに安堵したように見えた。

 捕まえるか、情報を得るか。

 牢屋に入っているりつは、未だに大した情報を吐かないという。捕まえたからと言って聞き出せるわけではなく、しかしキーダーとして彼を逃がす訳にも行かない。


 男は地面にダンと叩き付けた右足に力を込めて立ち上がった。

 見上げた彼の顔は面長で、右目の下にホクロがある。

 彼だ──と確信した瞬間、京子の全身がザワリと震えた。


「貴方はトールじゃないんですか?」


 背後で修司が「えっ」と驚く。

 トールは元キーダーを指す言葉だ。


「それじゃあ質問の返事になってないな」

「なら追わないと約束します。真実を下さい」

「オッケー」


 男は小さく笑って、緩んだサングラスを人差し指で押し戻した。

 

「さっきも言っただろ? アンタが言ってる薬はノーマルの為に作られたものじゃない。トールをバスクに戻す薬なんだよ」

「えっ……」

「一度消した力を戻すことが出来る。それに味を占めたホルスは、ノーマルにも使えるんじゃないかと踏んだのさ」


 薬の話を朱羽あげはとした時、あれは誰が飲むべきものだったのかという疑問が湧いた。

 ホルスが能力者を囲う手段として薬を使ったというなら、『誰』のための『何』の薬だったのか──。

 朱羽が言っていた『真意』を、彼はあっさりとくれたのだ。


「貴方は、松本秀信さんですね?」

「そこまでだ。追って来たら殺すからな?」


 彼はピンと広げた掌を京子の目の前に突き付け、「じゃあな」と背を向ける。

 かがめた背が再び吐き気に上下した。結わえた髪を左右に振りながら、彼は力なく歩いていく。


 追い掛ければすぐに捕まえることができそうなのに、二人は呆然とその背を見送る事しかできなかった。




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