112 今夜の予定は?

 北陸から戻って数日が経った。

 やよいの件も、高橋の薬の事も、これといった進展はないままだ。


 新学期が始まって学生組は昼間いないが、1年先へ進学を見送った修司しゅうじが午前中からトレーニングの相手をしてくれる。


「修司と二人きりなんて、新鮮」

「俺もです。良い機会だし、少しでも美弦みつるに追い付かないと」

「修司だって結構強くなったよ。二人に差なんて殆どないんじゃないかな」

「なら、もっと上を目指します。こんなんじゃ全然足りないんで」

 

 本来なら月初から北陸へ行く予定だったが、ストップされたままの出発になかなかGOサインは出なかった。

 最初は焦っていた修司もアルガスの不穏な空気に充てられてか、今までよりも意欲的に鍛錬をこなす毎日を送っている。


 京子は昼食後一度自室へ戻り、ソファに沈んで目を閉じた。マイペースで訓練していた頃とは違い、相手がいると思いのほかハードだ。

 もう少し、もう少しだけと体を休めて、叩かれた扉の音にハッとする。


 「はい」と大きめに返事した。

 のんびりしすぎて修司が迎えに来たのかと思ったが、相手は意外な人物だ。


「俺だ」

颯太そうたさん? はい、ちょっと待って下さい」


 口元のよだれを手の甲で拭い、扉へ走る。彼が部屋を訪ねて来るのは初めてだった。

 颯太はいつもの白衣姿で無精髭ぶしょうひげを撫でながら「ちょっといい?」と何やら申し訳なさそうな顔をする。


「構いませんよ、どうぞ」

「いや、ここで良いよ。京子ちゃんってこれから予定ある? 夜まで空いてるなら、ちょっと付き合って貰いたいんだけど」

「今日……ですか? 午後は訓練の続きで、夜は……」

「何かあるなら日を改めるけど」

「いえ、空けられます。今日じゃなくても構わないんで」


 今夜は綾斗とご飯を食べに行く約束をしていた。

 けれど颯太が直々に来るのは特別な用事だと察することができる。現に彼の左手には水のペットボトルと共にアルガスが発行する何らかの許可証が握り締められていた。

 残念だと思うけれど、仕事なら綾斗も納得するだろう。


「綾斗とデートの約束でもしてた? 付き合ってんだろ?」

「ちょっ、颯太さん!」


 北陸から戻ってまだ数日しか経っていない。

 話した記憶も見せつけたつもりもないのに、その事実はもうどこまで広がっているのだろう。

 廊下に誰かの足音が響いて、京子は慌てて颯太の腕を掴んで部屋へ引き入れた。


 颯太は「ひゅう」と口を鳴らして、「大胆」と笑顔になる。


「そういう事じゃなくて」

「分かってるよ。綾斗との事聞かれちゃマズいとか思ってんだろ? 気にするなよ、みんな知ってるって」

「みんな? そうなんですか? 話したつもりなんてないのに」


 足音が遠ざかるのを待って、京子はぎゅっと唇を噛んだ。


「側に居てくれる奴を好きになれたんだろ? 周りの目なんて気にしねぇで仲良くやってればいいんだよ。何も悪いことしてねぇんだから」

「そうなのかな……」

「そうだ。キーダーの仕事なんて、究極のドМの仕事だからな。吐き出せる相手でもいねぇと頭ぶっ壊れちまうよ」

「…………」

「綾斗が好きなら、甘えてりゃいい。アイツは本望なんじゃねぇの?」

 

 聞いているうちに恥ずかしくなって、京子は火照って来る頬を両手で挟んだ。けれど掌まで熱を持って、全然冷めてはくれない。


「けど、今回は俺も甘えさせて貰うわ。綾斗にはメールでも入れといて」

「修司も連れて行きますか?」

「俺は京子ちゃんに用があるんだよ。アイツは1人だって全然問題ねぇから」

「修司、最近すごく訓練頑張ってます」

「アイツはそれこそ究極のドМなんじゃねぇの? 美弦ちゃんにカッコいいとこ見せたいんだろうけどさ」


 颯太は高い音で笑って、白衣の袖をまくる。


「じゃあ、そろそろ行くか」

「今からですか? 分かりました、ちょっと待って下さい」


 京子は綾斗へメールを打った。詳細が分からず、急な仕事で遅くなるという旨を伝える。

 送信ボタンを押すタイミングを見計らって、颯太が「いいか?」とようやくその目的を口にした。


勘爾かんじさんに頼まれてな、京子ちゃんを浩一郎さんの所へ連れて行くのが今日の俺のミッションだ」


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