30 思いを伝えるタイミング
ピアノ教室を後にした龍之介は、台所でサンドイッチを頬張る母親を捕まえて、握り締めた紙を預ける。
「まさかこうくるとは想像もしてなかったけど、反対はしないからしっかりやりなさい」
思わせぶりな笑みを浮かべながらハンコをつく彼女は、龍之介の心配を汲み取って先に言葉をくれた。
「ありがとう」の声が小さくなって、龍之介は同じ意味を込めて大きく頭を下げる。
「行ってきます」と部屋へ戻り、荷物を持って家を出た。
昨日会ったばかりの
『昨日、キーダーが事故現場で活躍したって聞いたけど、お前がバイトしてる事務所の近くだろ? もしかしてお前の女神様か?』
いつも一言でしかメールをくれない彼が、珍しくテンションの高い長文を送りつけてきた。
『やっぱり一度会わせてくれ!』
龍之介が昨夜の詳細を伝えると、銀次の興奮は一気に高まる。
面倒だなと思いながらその頼みを断らなかったのは、龍之介の中で秘かに優越感が沸いたからだ。
正直イケメンの友達を彼女に会わせるのには抵抗があったけれど、いつも感じていたジェラシーの大逆転を測って、『ちょっとならいいぞ』と快諾する。
昨日の悪天候の名残で湿度の上がった曇り空の下を汗だくになって行くと、改札の出口で銀次がスマホ片手に「よぉ」とさわやかな笑顔で迎えた。
「朱羽さんには連絡してないから、本当に一目見るだけだからな?」
「分かってるよ。俺もバイトだし、挨拶したら帰るから」
「挨拶って。お前は俺の保護者かよ。いいか? 本人の前で女神様とか絶対に言うなよ?」
「分かってるよ」と歩き出した銀次を追い掛けて、龍之介は強く念を押す。駅から事務所まではほんの二百メートルだ。
「そういえば、俺……あ、いや、俺さ」
自慢ついでに銀次の憧れだというマサの話をしようとして、龍之介は出掛かった言葉を飲み込んだ。この短い距離で銀次に聞いておきたいことが唐突に浮かんだからだ。
「何だ? お前も実はバスクだったとか言うんじゃないだろうな」
「それならとっくに
空の手首を見せる龍之介に銀次が「確かに」と苦笑して、「どうした?」と振り向く。
龍之介は歩く速度を緩めて、右肩に背負ったリュックの紐を強く握りしめた。頭の中にふわりと浮かんだのは、朱羽ともう一人の懐かしい少女の顔だ。
「す、好きだって言う気持ちは、どうやって相手に伝えたらいいんだ?」
「告白するの? 女神様に?」
意を決して尋ねた龍之介に、銀次は驚いた顔で眉を上げる。
「何だよその顔。どうせ無理だって思ってんだろ」
「いや、そうは思わないよ。応援するって言っただろ?」
「なら教えてくれないか? 女子に関しちゃベテランだろ?」
両手を合わせた龍之介に、銀次は腕を組んで「いや」と唸った。
「俺はベテランなんかじゃねぇよ。告白なんてされてばっかりで、した事なんて一度もないぜ?」
あっけらかんと言い放った事実に、龍之介は怒りすら通り越してぐったりと肩を落とす。
「俺が一人を選んだら、みんなが平等じゃなくなるだろ? まぁつまりだ、俺のスマホの電話帳フォルダを空にさせる様な相手は、まだ現れていないってことだよ」
「結局自慢かよ。この間の
「どうって別に、バイト仲間だよ。それより今はお前の事だろ?」
二葉は、
銀次は何食わぬ顔で話題を戻す。
「お前が女神さまを好きだって思うなら、そう言えば済むことじゃないのか?」
銀次の言葉だけ聞くと、とても簡単に聞こえてくる。経験がないとはいえ、彼が本気を出せば成功率は百に近いだろう。
それなのに、同じ場面を自分に置き換えてシミュレーションしただけで龍之介の心は重くなった。自転車のハンドルにぶら下がるように溜息をつき、半ばやけくそになってその話を口にする。
「俺さ、中学ん時に好きな子が居たんだけど、人気のある子だったからどうせ無理だと思って何も言わなかったんだ。それなのに彼女が別の奴と付き合い出してから、実は俺のこといい感じに思ってくれてた時期があったって、別の友達から聞いてさ」
「ありがちな話だな」
客観的に見ればそう思うだろうが、当事者にしてみればありえない事実なのだ。
「同じ後悔はしたくないから、次に好きになる人にはちゃんと告白するって決めてた」
「なら、今からしてみるか?」
「それは早ぇよ」
心の準備は欠片もできていない。もう事務所はすぐそこに見えているのだ。
「告白か、そうだな。相手が失恋した時にすると確率が上がるって聞くけど」
「相手の気持ちにつけ込むようなのはちょっと……嫌だな」
それにずっと失恋状態の朱羽が相手では、タイミングが掴めない。
「じゃあ、いずれな」と笑う銀次に、龍之介は「あぁ」と頷いた。
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