29 小さな能力者

銀環ぎんかんですよね?」


 ピアノの前に座る小さな少女の手首に朱羽あげはと同じ銀色の環がある事に驚いて、龍之介は彼女の母親に尋ねた。

 表情がサッと陰ったのは、それが間違いでない証拠だろう。


「貴方は?」

「息子の相葉あいば龍之介です。突然すみません。その子はキーダーなんですか?」


 出生時の検査で能力者だと判定されると、その時点で銀環が付けられるらしい。けれど、実際にこんな小さな手に結ばれているのを見ると、環に込められた運命の重さを感じて違和感すら覚えてしまう。


「どうしてそう思うの? 先生はブレスレットだと思っているみたいよ?」


 龍之介の母親は、自分に関係のない事ならばあまり深く関わろうとしない性格だ。だから、彼女の手首にある銀の環がアクセサリーかそれ以外かなど、興味はないのだろう。

 今回のバイトの件も、「決まって良かったわね」と普通に喜んでくれた。


「キーダーに知り合いがいるので、同じだなって思ったんです」


 「そうなの?」と緊張を緩めた彼女の所に、娘が椅子をピョンと飛び降りて歩み寄った。


「キーダー? あーちゃん?」


 娘が母親のスカートを掴みながら、龍之介を振り向く。


 『あーちゃん』と言われて龍之介は咄嗟とっさ朱羽あげはを思い浮かべたが、母親が先に意外な名前を口にした。


木崎きざきさんです。分かりますか? たまに会いに来てくれるから、懐いちゃって」

「木崎……あぁ、綾斗あやとさん! だから、あーちゃんなのか!」


 昨日事務所に朱羽を迎えに来た眼鏡の男を思い出して、龍之介は「知ってます」と伝える。クールな印象が邪魔をして子供とたわむれる姿は想像できないが、同じ名前の人は他にいないだろう。


「私は佐倉美和さくらみわと言います。この子は心美ここみ。もう少しで三歳になるの」


 龍之介がバイトの話をすると、美和はホッとしたように笑って自己紹介をしてくれた。


「まさか、ここに事情通の息子さんがいるとは思わなかったわ」

「いえ。俺も最近のことなんで、詳しくはないんです。心美ちゃんは十五歳になったらアルガスに入るんですか?」

「それはこの子に決めさせるつもりよ。キーダーにはその権利がある。だから私はこの状況を受け入れることができるのよ」


 銀環をはめた能力者は、十五歳になったらキーダーとして訓練を受けるか、力を捨ててトールになるかを選択しなければならない。

 美和は俯きがちに心美の頭を撫でながら、胸に貯めた疲れを逃がすように「そうね」と呟いた。


「生まれてくる子が女の子だって分かった時、嬉しかったの。私は勉強ばかりであまり恋愛をしてこなかったから、娘にはいっぱい恋をして幸せになって欲しいなって思ったのよ。けど、この子が生まれた翌日にアルガスから木崎さん達が来たわ。娘をキーダーになんてしたくなかったけど、人間って非常な生き物なのね。銀環をはめることを周りから称賛されて、いい事なのかなって洗脳されてしまう。養育費の金額を見せられた時、夫は変わってしまったわ。結婚してすぐに事業が失敗して荒れた時期もあったけれど、今じゃいいお父さんよ。そうよね、自分の稼ぎよりこの子の養育費の方が高いんですもの」


 龍之介の母親は有名な元ピアニストだ。そんな彼女が営むピアノ教室の噂を聞きつけて、音大志望の学生が遠方から通うのも少なくないし、レッスン料もなかなかの額だ。

 朱羽も色々な習い事をしていたと言っていた。


「けどね」と美和は真面目な顔で龍之介を見上げる。


「キーダーは国に死ねと言われたら死ななきゃならない。命を顧みず、国を守るために戦わなければならないの。だから、多すぎる金額はその代償よ。私の気持ちだけで法律を覆すことができないのなら、割り切っていかないと前に進むことはできないわ」


 その言葉の重さに、龍之介は彼女から視線を逸らした。

 幼い心美は自分の運命を理解せずに、無邪気な笑顔を振りまいている。


 龍之介は手中にある紙を目の前に持ち上げて、下に書かれた『ALGS』の文字に目を細めた。

 自分はノーマルだ。この紙に込められた運命などないに等しいけれど、龍之介の中に小さな使命感が生まれて、ふつふつと微かな炎を燻ぶり出したのだ。



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