28 親衛隊の洗礼

 朱羽あげはに連れられて来たのは、昔からある老舗の大衆食堂だ。店の前には配達用のごつい自転車が停められている。

 「こんばんは」と暖簾を潜る彼女を、まだ若い店主がキャベツを刻みながら威勢の良い挨拶で迎えた。


「おぅ、朱羽ちゃんいらっしゃい。さっき熊さんトコにチャーハン持ってったんだけどよ、ヒデェ事になってたな。朱羽ちゃん人命救助したんだって?」

「少しお手伝いしただけですよ」

「謙遜するなって。アンタが居てくれると、この商店街も平和なんだ」


 全力で褒めてくる店主に照れる朱羽。そこまでは平和だった。

 「有難うございます」と微笑む朱羽の横に龍之介がのんびり足を止めた所で、空気が一変する。

 店主がまな板を鳴らす手を止めて、驚愕と怒りを込めて目をかっぴらいた。


「どちらさまで?」


 不躾ぶしつけな言葉と音に、龍之介は息を呑む。歓迎されていないことが一瞬で分かった。

 朱羽は駆け抜けた戦慄に全く気付いていない様子で、彼に龍之介を紹介する。


「うちの事務所で働いてもらう事になった相葉龍之介です。顔を合わせる事も多くなると思うんで、宜しくお願いします」


 店主は愛想良く「はい」と返事する。けれど龍之介に向けた眼は、包丁のように鋭く尖った。

 自分だけに見せる威圧的な態度に、龍之介は思わず半歩後ろへ下がる。


 不幸にも他に客の姿はなく、店主はニヤリと笑ってカウンターの外へ出てきた。


「坂上甚太じんたいいます。朱羽ちゃんの親衛隊所属や。よろしゅう」

「えっ、親衛隊?」


 突然聞かされた強烈な言葉に、龍之介は声を詰まらせる。

 しかも『隊』といえば一人じゃないだろう。そんな奴が商店街に何人もいると説明されて、龍之介は戦々恐々と肩を震わせた。

 彼の笑顔が朱羽の側に居る事への洗礼だと感じて、生姜焼き定食の味など全く味わう事ができなかった。

 


   ☆

「ライバルが多すぎる……」


 そんな昨夜の記憶を思い返しながら、龍之介は自宅の部屋で時計をぼんやりと見上げた。

 階段の下で耳慣れたピアノの音が鳴っている。


 若い頃ピアニストだった母親が父親と駆け落ちして始めたピアノ教室は、玄関のすぐ右隣りにある少し広めの洋間だ。


 母親は小さい頃からピアノの先生になりたかったらしい。

 けれど実力が予定を超えてしまい、周りの期待のままに押し上げられてしまったという事だ。

 今こうして夢を叶えているのは、現実をおもんばかった末の、実力行使の結果だ。だから未だに不満をぼやく祖母の前で、ピアノの話をしてはならない。


 昼食後、龍之介はピアノ教室の休憩時間を見計らって、昨日綾斗あやとに渡された用紙を手に階段を下りた。

 アルガスの資料整理に携わることへの、履歴書を兼ねた諸々の承諾書だ。空欄を全て埋めて、あとは親の署名捺印だけの状態にしてある。


 ピアノの音が聞こえてこないのを確認して、龍之介はトントンと扉を叩いた。

 「はい」と届いた声に、そっと扉を引く。


「先生いますか?」


 ここでは母親をそう呼ぶ決まりだ。二十センチ程開いた隙間に顔を滑り込ませると、母自慢のグランドピアノの前で、まだ幼い少女がちょこんと座って足を揺らしていた。

 平日の昼間は二、三歳の子を相手にリトミック教室とやらをやっているので、その生徒だろう。

 彼女の後ろには母親らしき若い女性がいて、どうやら先生を待っているらしい。


「前の人が終わった時に離席したままですよ」


 休憩中だろうか。次のレッスンまで数分あるのは事実だ。


「そうですか。お邪魔しました」


 ぺこりと頭を下げたところで、龍之介はふと視界に入り込んできた光に、掴んでいたノブを放した。小さな少女の手首に銀色の環が光る。


 龍之介の驚愕に女性が「何か?」と首を傾げる。

 龍之介は人差し指で少女の手首を指した。


「銀環ですよね?」


 穏やかだった母親の表情がサッと陰る。間違いではないようだ。





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