27 スラッシュ/
「このコーヒー豆って
気不味さを感じながらも、龍之介は銀色の袋を手に取り朱羽に尋ねた。
キッチンの隅にそれが放置されていた理由を聞かずにはいられなかったからだ。
「え? バイトってあそこだったの? そっか……えっと、その豆はね」
朱羽は急に大人しくなって、シャワーで湿った毛先をそっとバスタオルで挟みながら恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「マサさんがコーヒー好きだっていうから、ちょっと飲んでみようかなって思ったの。あの店を選んだのは、京子が勧めてくれたからよ? 美味しいって評判だからって、二人で行ってきたの」
「京子さんも一緒だったんですか」
とは言え、豆の賞味期限からして龍之介が働いていた時期でないことは明確だ。
それでもニアミスだと喜んだ反面、予想通りの展開に少しだけ心が
「コーヒーが飲めないって言うと、京子が「子供だ」って
コーヒーメーカーも殆ど使われた形跡はない。
人を好きになる事は凄いと思った。苦手だという彼女に豆を買いに行かせた『マサさん』に嫉妬してしまう。
朱羽は龍之介が用意したティカップを手に取ると、沸き立つ香りにホッと表情を緩めた。
龍之介は向かいに座って、熱いカモミールをすする。少し冷えていた体には嬉しい温度だ。
「朱羽さんって、京子さんと仲いいんですね」
「そう見えた? 昼間のアレで?」
「違うんですか?」
疑問符を顔に貼りつけた朱羽に、龍之介は首を傾げる。
「だって、しょっちゅう喧嘩するのよ? 言いたいこと言える相手って考えれば、そんな風に見えるのかもしれないけど……これでも京子にコンプレックスだらけなんだから」
「そうなんですか」
「何やっても京子の方がうまくできるから、昔は良く自信無くして泣いてたわ。アルガスに居た頃はいつも京子と張り合って、あの人に褒められたいって頑張ってた」
マサと距離を置くために朱羽はアルガスを離れたと言っていたけれど、彼女がここに留まる理由はそればかりではないのかもしれない。
朱羽は右の人差し指をピンと伸ばすと、テーブルの上で斜めに指を滑らせた。
「スラッシュ──どっちにする? っていう意味よ。マサさんに言われたの。この事務所で仕事して、あそこへ戻れないようなら他の道を勧めるって。私は逃げ出したまま、意地っぱりになってるのよね」
ここへ来る提案が上層部を納得させたという。
今日IDカードを更新するために、彼女はアルガスへ足を運んだ。それはキーダーを続ける意思だと受け取って良いのだろうか。
彼女の選ぶ道は、
「朱羽さんは戻りたいんですか? アルガスに」
「どうかな。そう思ったことがなかった訳じゃないけど、ここの生活は嫌いじゃないし龍之介も来てくれたから、もう少しこのまま居れたらって我儘になっちゃう」
「俺ならいくらでも居ます!」
そこで名前を出して貰えたことが、嬉しくてたまらなかった。冷静でなどいられなくなって、持ち上げたティポットをひっくり返しそうになる始末だ。
「何か湿っぽくなっちゃったから、ご飯でも食べに行こっか」
「はいっ、喜んで!」
朱羽の着替えを待って外に出ると、あれだけ降っていた雨が止んでいた。
朱羽が常連だという、同じ商店街にある古い食堂まで百メートル。普段なら短いと思うその距離を、龍之介は彼女の隣をゆったりと歩いた。
少しだけ恋人気分を装って背伸びしてみるけれど、この道の先で待ち構える試練に龍之介はまだ気付いていなかった。
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