26 シャワー上がりの誘惑

 耳慣れしたメロディを口ずさんでいると、いつの間にかシャワーの音も気にならなくなった。

 カタカタと蓋を揺らしたやかんからティーポットへお湯を注ぐと、衝立ついたての向こうで物音がして朱羽あげはが戻って来る。


「それ、何て曲?」


 洗いたての髪にバスタオルを被せて、湯気が見えそうなほどに火照った顔で「ただいま」と微笑んだ。朱羽はキッチンから近いテーブルの椅子に座って、髪をぐしゃぐしゃっと拭き始める。


「雨だれです、ショパンの」

「へぇ、クラシック。意外ね」


 淹れ立ての紅茶に、華やかなシャンプーの匂いが混じった。

 丈の短いラフなTシャツと短パンの間に肌色が覗いて、龍之介は慌てて目を逸らす。


「母親が家でピアノ教えてるんです。生徒さんも結構いて、いつも何かしらの音は流れてるから自然と覚えちゃって」

「面接の時そんなこと言ってたわね。龍之介も弾いたりするの?」

「俺はすぐに辞めました。毎日家で練習するの面倒くさくなっちゃって」


 龍之介はトレーにカップを揃えながら、さりげなく視線を朱羽に戻す。

 最初は気付かなかったが、彼女の右腰の上に引き裂かれたように波打った傷跡を見つけて、ハッと息を呑んだ。


「気になる?」


 けれどそれは一瞬でバレた。


「……はい。すみません」

「いいのよ。これはね、キーダーなのに我儘言ってこんな所に居させて貰ってる私への、神様からのペナルティなの」

「ペナルティ……ですか」

「えぇ。まぁ京子もこの間同じような怪我してたから、神様なんて関係ないんだろうけど。キーダーなんて傷だらけ。それでも辞めようって気にはなれないのよね」

「そういうものなんですか?」


 心配する龍之介に朱羽は「うん」と笑んで、話を元に戻した。


「私もエレクトーンなら習ったことあるわよ。けどやっぱり続かなくて。他にも色々習わされたけど、まぁまぁ長く続けられたのは剣道くらいかしら」


 朱羽は得意げに笑って頭のタオルを勢い良く剥ぐと、竹刀に見立てて構えて見せる。


「朱羽さんこそ、意外ですね。あっでも、キーダーだからか」

「そういうこと」


 十五歳になってアルガスに入る選択をしたキーダーは、国を守るために戦わなくてはならないのだ。


「銀環って、お風呂の時も外さないんですか?」

「そうよ。自分じゃ外すことができないの。生まれてすぐの時から、ずっと付けているわ」


 成長に従って少しずつサイズが変化していくのだと説明して、朱羽は「不思議よね」と人差し指で銀環を突く。


「言ったでしょ? キーダーの力はこれでコントロールされてるって。隕石落下事件でキーダーは英雄なんて言われるようになったけど、それってノーマルが能力者の力を恐れて自己防衛してるだけなんだから。出生検査を逃れた能力者──つまりバスクから身を守るために、アルガスは一人でも自分たちに従うキーダーを確保したいのよ。だからこの銀環は、飼い犬の首輪みたいなもの」


 キーダーの敵はあくまで同じ能力者だと銀次も言っていた。今まで気にもしていなかったことが、急に身近な話題になっていく。


「けど仕事さえすれば好待遇が受けられるんだから、利害は一致してるのよね」

「キーダーはこの国を守る砦だって、俺の友達が言ってました」


 銀次にそれを聞いた時は砦という言葉を深く考えてはいなかったけれど、それは最前線で戦うのが彼等だという意味だ。

 キーダーを盾にして、背後に居るノーマルは守られる。

 そんな役目を受け入れる朱羽は、「分かってるじゃない」と笑んだ。


「さっきの朱羽さんは、とってもカッコ良かったです。あんな重い車も動かせるんですね」

「限度はあるけどね。空気とか液体は無理だけど、形があるものならある程度はいけるわ」


 そう言って朱羽は机の上に置いてあったペンを、手も何も使わずに空中に浮かせて見せた。ガイアから龍之介の給料袋を取り返してくれた時と同じ力だ。


 「凄い」と改めて感動するも、龍之介は傘持ちをしていただけの自分の無力さに苛立ちを覚えてしまう。


「俺にできることなら何でも言って下さい。少しでも朱羽さんの役に立ちたいんです」

「ありがとう龍之介。そんな事言ってくれる人が側に居るのって、結構嬉しいものなのね」


 何の含みもなく言った彼女の言葉は、嬉しいけれど少し寂しい。

 龍之介はこくりと頷いて、キッチンで見つけた銀色の袋の事を朱羽に尋ねた。


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