25 無防備な彼女
事務所に戻った途端、
つけっぱなしのエアコンの冷気が、濡れた体に凍み込んでくる。
「ちょっとエアコン消すわね。私先にシャワー浴びてきてもいい?」
突然そんなことを言われて、龍之介は「ふえっ?」と思わずおかしな声を出してしまう。
この事務所が彼女の自宅を兼ねている事をすっかり忘れていた。
暗がりでは気にならなかったのに、びっしょりと濡れた袖のないニットが彼女の身体の線を
「ど、どうぞ。風邪ひいちゃいますから」
「ありがとう」と爪先歩きで一度寝室に戻った朱羽は、ふかふかしたピンク色のバスタオルを二枚持って戻って来ると、一枚を龍之介に渡した。
「龍之介も入っていったら?」
「一緒にですか?!」
「ちょっと」と赤面して胸元を抑える朱羽。
突発的におかしなことを口走った自分を呪って、龍之介は「じょ、冗談です!」と頭を下げた。
「すみません、俺は傘さしてたから平気です!」
龍之介は広げた両手を大ぶりに振って断った。
「一緒には入らないけど、お風呂くらい遠慮しなくてもいいのよ?」
「いえ。俺お茶淹れて待ってるんで、温まって来て下さい」
シャワーへと急かす龍之介に朱羽は「わかったわ」と頷いて、薄い
扉が閉まる音とともに事務所は静まり返ったが、少しすると壁越しにシャワーの音が聞こえてくる。
龍之介は息を呑んで、借りたタオルを頭から被った。
「……だ、駄目だ!」
ふかふかのタオルは耳栓の役目をしてはくれない。それどころか彼女と同じ匂いをいっぱいに放って、抱きしめるように頭を包み込んだ。
「落ち着け、龍之介」
湧き上がる欲望を振り切るように「駄目だぁ」と繰り返す。
龍之介はタオルを剥いでテーブルの上に乗せ、気を紛らわせようと適当な音楽を口ずさんだ。なのに耳がシャワー音を拾おうとする。
龍之介は崩れるように溜息を吐いて、キッチンへ向かった。出掛けに準備したやかんに水を入れ直し、今度こそ火にかける。
ティーポットの横に置かれたカモミールの缶には、丸熊茶舗の名前が入っていた。さっき会ったばかりの店主とカモミールの組み合わせをちぐはぐに感じながら、龍之介はカップ置き場の隅に銀色の袋を見つける。
普通なら見過ごしてしまいそうな小さな袋の中身がコーヒー豆だと気付いたのは、前にバイトしていたカフェで同じものを毎日見ていたからだ。バルブの付いたその袋を手に取って、龍之介はラベルを確認する。
「やっぱり、あそこだ」
思った通り、それは龍之介が春までバイトしていたカフェで売られているコーヒー豆だった。店のオリジナルブレンドで、味も分かる。けれど賞味期限は一年も前に切れていた。
ここからカフェまではちょっと遠いけれど、徒歩で行ける距離だ。コーヒーを飲まない彼女が客用にと考えれば、何ら不思議なことではない。
――『次の誕生日は、コーヒー好きの奴だからね』
コーヒーというワードに絡めて、アルガスの食堂長である平次の話を思い出す。そしてそれは同時に、もう一つの記憶を引き出した。
――『誕生日は八月十日で……』
『マサさん』という人は、もうキーダーとしての能力を失ってしまったらしい。この部屋で自分がコーヒーを飲むことは、彼女の心をえぐることになってしまわないだろうか。
「だから、気にしすぎだって」
自分の胸にそう言い聞かせて、龍之介はまたメロディを口ずさんだ。
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