【番外編】9 馬好きの男

 藤田膳一ぜんいちという男に初めて会ったのは、久志ひさしがまだアルガスに入る前の十四歳の時だ。

 キーダーとして家を出るまで一年を切って、進学先も決まらないままぼんやりとした日々を過ごしていた。


 実家のある埼玉から東京のアルガス本部までは少し距離がある。高校はアルガスの近くが良いだろうと言われていたものの、調べるのが億劫で先延ばしになっていた。


 将来はキーダーになるという確立した進路があるせいで、高校進学は惰性にしか感じられない。成績は毎回上の順位をキープしているが、「選び放題じゃん」と揶揄からかわれても、広がりすぎた選択肢を簡単に絞ることができなかった。

 いっそアルガスから一番近い所に行こうかと思ったが、結局久志が最後に選んだのは東京の外れにある公立の工業高校だ。


「ちょっと久志さん、昨日泊まったんですか? こんな所で寝てたら風邪ひきますよ」

「あれ、もう朝? やり始めたら止まらなくなっちゃってさ」


 一晩掛けて直した腕時計を握り締めながら、技術部の机でうたた寝しているところを出勤してきたメイに起こされた。

 「おはよう」と時計を腕にとめて、久志は大きく伸びながらソファへ移動する。


「その時計、大分古いものですよね。自分で直すなんて尊敬しちゃいますけど、久志さんてキーダーなのにどうして技術者になったんですか?」


 今時珍しい手巻きの腕時計は調子が悪くなるたびにメンテナンスをしているが、いよいよ昨日針が動かなくなってしまった。一晩中格闘したせいで、前の持ち主である藤田の事ばかり考えてしまう。


 藤田膳一は、かつてアルガス技術部の神とはやされていた男だ。

 ボロボロの革バンドの穴が、二つ大きい彼のサイズで引き伸びている。


 メイは両手に持ってきたマグカップのうち青い方を久志に渡して、向かいの席に腰を下ろした。

 久志は沈み込んでいた腰を浮かせてコーヒーの湯気を吸い込む。半開きだった目がようやく開いた。

 今日は彼女の双子の姉であるキイが有休をとっていて、技術部は朝からメイと二人だけだ。特に急ぎの仕事もなく、このコーヒーを飲んだら帰ろうかと思う。


「僕がこうなったのは、やっぱり藤田のオッサンに会ったからだよ。それまでは技術系なんて考えもしなかったからさ」


 十四才の時、書類か何かの提出を忘れた母親と、一度だけアルガスに来たことがあった。

 郵送でも構わないと言われたが、ミーハーな母親が『大舎卿だいしゃきょうに会いたい』という不純な動悸を匂わせていたのは覚えているし、帰りに「握手してもらっちゃった」と浮かれていたのも覚えている。

 そんな母親が事務所で話をしている間、久志は彼の『音』を聞いたのだ。


 怒鳴るような、歓喜するような絶叫が静かな廊下に響いて、驚いた久志は思わずその声を辿った。

 【技術部】と書かれた部屋からテレビか何かの音が聞こえてくるのに気付いて、細く開いていた扉の奥を覗き込む。その部屋に居たのが、勢いのあるラジオの実況に興奮するボサボサ頭の藤田だった。


「あの人、競馬新聞振り回しながら仕事中に競馬実況聞いてたんだよ。信じられる?」


 北陸支部が設立されるまで、技術部も東京の本部にあった。アルガスの中心的なその場所で、まさか競馬に熱中している男がいるなんて外の人間は誰も思わないだろう。

 その時の光景を再現して、久志はぐるぐると右の拳を振って見せる。


「馬好きの人っては聞いてましたが、競馬好きだったんですか?」

「そうなんだよ」


 アルガスの天才技術者・藤田膳一が馬好きというのは結構知られているが、実際は競馬好きのギャンブラーだという事を知るのは中に居る一部の人間だけだ。

 元々はシンプルなつかだったキーダーの武器も、彼の影響で馬型の趙馬刀ちょうばとうになった。


『誰だ、オメェ』


 負けた馬券の束を桜吹雪のように部屋へ散らして、藤田は入口に呆然ぼうぜんと立つ久志に気付いた。


『えっと、空閑くが久志です』

『キーダーか。見ねぇ顔だな、変な頭しやがって』


 そう言って詰め寄ってきた彼は、銀環を付けてはいなかった。

 おもむろに腕を掴まれて、顔の側まで持ち上げられた。銀環を満遍まんべんなく見つめる目が正直怖かったのを覚えている。


『乱暴な使い方はしてねぇな。お前、歳は?』

『じゅっ、十四です。来年本部ここに入るので……』

『あぁそうか。なら、それは俺が作ったやつだな』


 藤田は久志の腕を離して、ジリジリと鳴るラジオのスイッチを止めた。途端に静かになった部屋に、今度は久志が興奮して声を上げる。


『作った? この銀環をですか?』


 部屋の入口に【技術部】だという札はあったが、中はテーブルと椅子が並んだシンプルな部屋だった。作業部屋が別になっていることは、久志がアルガスに入ってから知った事だ。


『あぁそうだ。二十年前までのだと、大体俺だ。趙馬刀もな』

『すごい。それって全部手作りなんですか? そんなことできちゃうんだ』


 銀環を付けていても実感は沸かないが、趙馬刀の凄さは知っているつもりだ。


『俺は天才だからな』


 ガッハッハと笑う彼に興味が湧いて、久志はその技術に飛びついた。


「だって、あんな偏屈へんくつのギャンブラーが天才技術者なんだよ? カッコいいと思わない?」

「そ、そうですね」


 目を輝かせる久志に、メイは首を傾げながら同意する。


『僕もそんな腕があればいいのに』

『キーダーなら、それだけで十分じゃねぇのか?』

『キーダーだからって大した根拠もなしにはやし立てられても、虚しいだけなんですよ』

『面倒くせぇガキだな。キーダーは何かあったら最前線で戦う。その為にお前の先輩たちも毎日ヒィヒィ言いながら訓練してるんだろ? 俺は、そんな奴らが少しでも無事に戦場から帰ってこれるよう道具を作ってんだよ』


「かっこいぃです!」

「だろぉ? 藤田のオッサンは滅茶苦茶カッコいいんだよ!」


 新人技術者のメイも、久志につられて声を弾ませた。

 乱れたおかっぱ髪を耳の後ろへ掛けて、久志は満面の笑みを広げる。


『ただのキーダーがつまらねぇって言うなら、俺んトコ来てもいいぜ? ちょうど小間使いが欲しいと思ってたとこだ』

『それって、僕を弟子にしてくれるって事ですか?』

『上の許可取ってきたらって条件でな』

『本気にしますよ?』

『おぉ。待ってるぜ』


 そんな言葉を交わしたが、あの時はお互いに本気ではなかった気がする。アルガスに入って初めてあの部屋のドアを叩いた時、藤田は仰天していた。

 久志はずっと、キーダー以外の逃げ道を確保したいと思っていた。

 何となくの勢いが本気になるまで、そう時間はかからなかった。


「それで、少しでも役立てられればと思って工業高校に入ったんだよ」


 こっそりアルガスに連絡をして、藤田がその学校出身だと教えて貰ったからだ。

 そこからはとんとん拍子に事が進んで、久志が技術部に入ることも上はすんなりと許可してくれた。キーダーとしての訓練をするというのが条件だったが、早寝早起きが辛いだけでさほど難しいことではなかった。


「付きっきりで学ばせてもらったのは、藤田のオッサンが退職するまでの二年しかなかったけど、その後もしょっちゅう来てくれたんだ。数えきれないくらいの事を習ったけど、競馬場に行った思い出も多いかな」


 そして彼がアルガスを去る最後の日、この時計を貰った。


『お前と居て色々世話になったから、何か買ってやろうと思ったんだけどな。デパート行く前にレース行ったら、金がなくなっちまったんだよ。だから、コレをやる』


 そう言って藤田は、生ぬるい体温が染みついた自分の腕時計を外した。


『これは俺が初めての給料で買った腕時計だ。お前ならコイツも喜ぶだろ』


 古いのは知っていたけれど、こんなに壊れやすいものだとは思っていなかった。

 これをメンテナンスする度に、藤田に試されているような気がしてならない。


「僕がこの時計をしてるのは、そういうワケだよ。どう思う?」

「素敵な話ですね」


 久志は冷めたコーヒーを飲み干して、大きな欠伸あくびを零した。

 流石に徹夜分の眠気にはカフェイン効果も薄れてしまう。


「まぁね。ってことで、僕はそろそろ帰るよ」

「駄目ですよ、久志さん。今日はまだここに居て下さい」


 メイが突然目を鋭く光らせる。


「はぁ? どういうこと?」

「やよいさんが、久志さんの事帰らせるなって。命令なんで観念してください」

「何それ。お前、やよいに寝返ったの?」

「そうじゃないんですけど……」


 言い難そうに肩をすくめ、メイは入口の前へ移動した。


「昨日、カウンターのお寿司奢ってもらったんで逆らえないんです……」

「ちょっと……」


 扉の向こうでコツリと響いた足音に、久志が声を震わせた。

 最近、早朝訓練が面倒で彼女を避けてばかりいたツケが回ってきたのか。

 登場をアピールするように広がった彼女の気配に、久志は「やめて」と目を閉じた。






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