39 覗き見

 扉の外で見張りをしている護兵ごへいに水を買いたいと尋ねると、そでの上からでも分かる筋肉隆々きんにくりゅうりゅうの腕を伸ばして「突き当りの食堂で」と教えてくれた。


 廊下はひっそりとしていて、硬い床が足音を響かせる。

 修司たちの居る二階にはキーダーの個人部屋がずらりと並んでいた。

 部屋主を示したプレートの中に『田母神京子たもがみきょうこ』の名前を見つけて、修司はあっと目を見開く。


 彼女に会うことを密かに楽しみにしていた。かつてバーの前で倒れ、あの堅物かたぶつ平野ひらのをあっさりとキーダーにしてしまった女性は、恐らく彼女だろう。

 明日には会えると聞いて興奮するこの気持ちは、握手会前日のゆずると似ているのかもしれない。


 中央の大階段を挟んだ反対側は共用スペースになっていて、一番奥に食堂があった。

 廊下の突き当りが見えた所で、修司はふと足を止める。


 何かが聞こえた気がして耳を澄ますと、確かに雑音のようなものが遠くで鳴っていた。

 距離が邪魔してハッキリと聞き取ることができないが、足音を忍ばせて近付くと、食堂の手前でそれが人の声だと理解できた。

 綾斗あやとだ。しかし彼の声とは別に獣のようなうなり声が響いてくる。


「辛くなるの分かってて、最後まで付き合う事なんてないですよ。少しは自己管理して下さい」


 疲れの混じったような呆れ声。食堂への壁が切れた所で、制服を着た彼の背中が見えた。

 修司は背の高い観葉樹の陰に隠れ、そっと様子を伺う。


 オープンスペースの食堂はすっかり照明が落ちていたが、木のパーテーションで区切られた廊下側にはソファと自動販売機が並んでいる。こんばんはと挨拶して用を済ませればいいのだが、プライベートであろう状況に足を踏み入れることを躊躇ためらってしまう。


 姿の見えない相手から「うぅ」と悲痛な声が漏れる。

 獣の唸り声だと思ったものは女性の声だった。言葉にならない音を絞り出した後、息も絶え絶えに「もうダメ」と零す。


 衝動的にもう一歩二人に近付くと、隠れる場所はなくなっていた。同時に女性の姿が視界に飛び込んできて、修司は思わず「あ」と出た声を両手で塞いだ。


 仁王立におうだちになった綾斗の前で、ソファに全身を預けた女性が、真っ赤に火照った顔を仰向けにさらしている。

 白いシャツに紺のタイトスカート。黒いハイヒールが床に転がり、パンストで覆われた足が内股で床に投げ出されていた。


 具合が悪いのかと思ったが、その予感をすぐに否定する。もっと当てはまる状況を知っている。

 酔っ払いだ。


 きっと綾斗は修司に気付いているだろうが、二人ともこちらを気にする素振りを見せない。そして、彼女が誰であるかはすぐに理解することができた。


「次は俺が行きますからね?」

「綾斗あんまり飲めないでしょ? 私だってちゃんと加減して飲んでる……つもりだったんだけど。あぁ、気持ち悪っ……」


 ようやく彼女の言葉を聞き取ることができた。意識はあるようだが、時折背を丸めて目をきつく閉じている。綾斗はそんな彼女の横に浅く掛けて背中をさすった。


「加減って。俺は酒飲んで理性無くしたくないだけです。吐きますか?」

「ううん、大丈夫。ごめんね」

「いいですよ。けど、俺は京子さんの身体を心配してるんです。がれた酒なんて全部飲まなくていいんですからね?」

「飲んでる時は平気な気がするんだけどな……」

「お酒が飲みたいなら、俺が付き合います」

「うん。けど、それはいつものことで……」

「足りない?」

「足りてる。ただ、今日はこっち戻ったら綾斗いるなと思ったら、つい……」

「それは……構いませんけど」


 手慣れた様子で介抱しながら、綾斗は「京子さん」と彼女を呼んだ。予想通り、田母神京子だ。けれど、大舎卿だいしゃきょうのイメージをあてて作り上げてきた聡明な彼女像とは大分掛け離れている。


「まぁ意識があるだけ上出来です」


 うっすらと漂うアルコールの匂い。

 綾斗に渡されたペットボトルの水を一口飲むと、京子は酒気を逃がすように大きく息を吐き出して、仰向けのまま身体をひねった。目を閉じてしばらく会話が途切れる。

 寝てしまったのだろうかと表情を伺うと、修司の視線を感じ取ったかのように「あぁ」と大きな瞳がパチリと開いた。

 京子は片腕を軸にして体を起こそうとするが、「どうしたんですか」と綾斗に押し戻される。


「昨日言ってたでしょ、近藤武雄こんどうたけおの話。詳しく教えて」

「詳しく言った所で覚えられるんですか。明日話しますよ。それより、京子さんがここで潰れてるとアルガスの風紀ふうきを乱します。移動してもらいますよ」


 立ち上がり掛けた綾斗の腕を掴んで、京子は「駄目」と青ざめた顔をソファに伏せた。


「まだ動けない」


 綾斗は「はいはい」とあしらい、掴まれた手を彼女の顔の横へ移動させる。


 京子が口にした男の名前には聞き覚えがあった。けれど記憶には繋がらず、修司はそのまま聞き流してしまう。たずねる程の興味も湧かなかった。


「ねぇ綾斗、明日、桃也が帰って来るんだよね?」


 目を閉じたまま京子は顔を少しだけ綾斗に向ける。


「今日、長官を送った足でコージさんが向こうに入ってるんで、明日の夕方には帰還きかん予定です」


 何処か不満そうに答える綾斗。

 「そっか」と目尻を下げる京子は、どこか寂しげな色を見せる。


「嬉しくないんですか?」

「桃也に会えるのは嬉しいよ。けど……」


 言葉を濁した京子の返事に、修司は妙な緊張を覚えてゴクリと息を飲み込んだ。




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