48 彼女の気持ち

 京子の声に食い付いて、美弦みつるが「桃也とうやさん?」と相手を振り向く。

 それが京子の恋人の高峰たかみね桃也だと理解して、修司もその視線を追った。

 夕方に戻ると聞いていたが、大分早い到着だ。


「懐かしい事してんな」


 長身の男が床に転がったペンを拾い上げる。

 制服のタイはなく、ジャケットのボタンは空いたまま。泥だかすすで全身が汚れていて、まるで戦場からそのまま戻ってきた感じだ。


 「お疲れ様です」と挨拶あいさつする美弦は、そんな彼に驚くこともなく興奮気味に話し掛ける。


「この間の報告書読みました。桃也さんの活躍に、私感動しちゃって」

「大袈裟だって。別に大したことしてねぇよ」


 桃也は釣り目がちの目尻を下げて、横で待つ京子に「ただいま」と微笑みかけた。


「もっと遅くなると思ってたよ」

「コージさんに無理言って、朝から飛ばしてもらったんだ」


 ギャラリーの目もはばからず、桃也は京子を抱き寄せる。

 見慣れぬ男女の抱擁に戸惑いながらも、「お帰りなさい」と安堵する京子の目に涙を見つけて、修司は昨夜の事を思い出した。


 ──『ヤな女だよね』


 どこか不安気ではかない表情が、昨日見た彼女に重なる。


「心配するなって言っただろ?」


 髪をでる桃也に「うん」と答えて、京子はそっと彼を離れた。

 目尻に指を当て、彼の胸を離れて「ごめんなさい」と修司たちを振り返る。

 桃也は「ただいま」と繰り返し、修司の前にやってきた。


「大体資料は読んできたよ。保科ほしな修司だよな? 少しの間だけど、トレーナーを務める高峰桃也です」

「よろしくお願いします」

「おぅ、よろしくな。けど本当に俺でいいのか? 俺だってまだ新人みたいなものだけど」


 桃也は困惑をにじませるが、京子は「適任てきにんだよ」と微笑ほほえむ。

 二年前の資料に名前のなかった彼が自分を新人だという経緯を知りたいところだが、今はそんな雰囲気ではなさそうだ。


「ならいいけど。今日は報告書溜まってるから、夕方にお前の家まで荷物取りに行こうぜ」

「えっ、ウチに戻れるんですか?」


 突然の話に、修司は自分を指差す。


「いきなり拉致らちされて来たんだろ? 着替えとか必要なもん取りに行って来いって、綾斗に言われたんだよ」


 拉致という言葉が適切かどうかは分からないが、あの家に行けると思うと嬉しくなってしまう。そして「後でな」とホールを後にする桃也を見送る京子に、美弦が声を掛けた。


「私たち、二人で風船割ってみます。だから、京子さんは桃也さんと――」

「気を遣わなくてもいいんだよ?」


 恥ずかしそうに遠慮えんりょする京子だが、桃也が「ありがとな」と戻って来た。


「俺も、手伝ってもらえると助かるんだけど。甘えさせてもらってもいいか?」

「任せて下さい。コイツが脱走しそうになったら、私がちゃんと仕留しとめて見せますから」


 どんと胸を叩く美弦とは対照的に、修司はふるふると首を横に振る。


「心配しなくても修司はそんなことしないでしょ? じゃあ、二人とも仲良くね」


 京子は申し訳なさそうにしながら、今度は青色の風船を取り出した。


「三十分くらいはとどまってると思うから、それまで頑張ってみて」


 前よりも一回り大きく膨らんだ風船が天井に辿り着くのを見届けて、京子は桃也とホールを後にした。



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