2 彼と居た場所への別れ

 関東から聞こえた桜の便りに、ようやく寒さも緩みだした三月末の仙台で、保科修司ほしなしゅうじはもう一度その場所を訪れた。


 繁華街の奥にひっそりとたたずむ、バー『プラトー』。

 開店前の一時間を彼と過ごす為、修司はずっとここに通っていた。

 しかし、そんな生活も五年で突然ピリオドを打たれる。

 『休業』と書かれた紙が冬の空気にさらされて、緩くなったビニールテープでかろうじて黒い鉄扉に留まっていた。

 マジックで太く書かれていた文字も、二月ふたつき程で大分薄れている。


平野ひらのさん」


 ぼんやりと彼の名を呼び掛けた。ないと分かっている返事を待って、沈黙に肩を落とす。


しゅうちゃんかい?」


 聞き覚えのある声に、修司は「お久しぶりです」と彼女を振り返った。


「あぁ、やっぱりそうだね。修ちゃんにもう会えないんじゃないかって思ってたのよ?」


 美佐子みさこは着物の似合う老齢ろうれいの女性だ。

 プラトーの横にある小料理屋の女将おかみで、修司をいつも気遣ってくれた。

 平野の事を「頑固親父ね」となじっていたこともあったが、『休業』の貼り紙がかかげられてからの美佐子は、どこか寂しさが垣間見えた。


「この間、そうちゃんが見えたのよ。修ちゃんと東京に行くって聞いて、私びっくりしちゃって」


 修司には両親が居ない。父は生まれる前に事故で他界し、病弱だった母も五年前に亡くなった。

 それ故に、母方の伯父である颯太そうたと二人暮らしをしている。


 東京の高校を受験することは、平野がキーダーになったと聞いて自分で決めたことだ。

 最初反対した颯太は、五分後には「俺も行くぞ」と言ってくれた。

 産婦人科医として総合病院に勤めていた彼が仕事を辞める決断をしたことに驚愕きょうがくと後ろめたさを感じたが、彼は翌日あっさりと次の仕事を決めて帰って来たのだ。


「寂しいけど、応援してあげなきゃね。それに――修ちゃんも不思議な力が使えるんでしょう?」


 きっちりと結い上げられた髪を撫で、美佐子は修司を覗き込むように首をかしいだ。

 修司が「いえ」と口籠くちごもると、美佐子は「困らせちゃったかしら」と笑んで、「内緒ね」と赤く塗られた唇を人差し指で塞ぐ。


 修司と平野は不思議な力を持っていた。


 ――「国の犬になりたくなかったら、つかまらないすべを身に着けろよ」


 この世には特殊な力を宿す人間がまれに生まれる。出生時に検査で振り分けられた能力者は、『キーダー』としてその力を国の為に捧げるのが鉄則だ。

 けれど英雄と呼ばれるキーダーの陰で、何らかの事情で検査をのがれた能力者が存在する。一般人をよそおって生活する二人のような存在は『バスク』と呼ばれ、み嫌われていた。


 五年前、彼と偶然に出会った。

 キーダーの印である銀環のない修司に、平野は驚愕きょうがくしたという。


 「修ちゃんもキーダーになるの?」と微笑む美佐子は大分事情が分かっているらしい。


「それはまだ決めていません。知ってたんですか? 俺の事」

「えぇ。ごめんなさいね。まだ修ちゃんと会ったばかりの頃よ。だって、こんな夜の街に小さな男の子がいるんだもの。平野あの人の事問い詰めちゃった」


 悪戯いたずらっぽく笑む美佐子の言葉に、修司は気持ちがスゥと落ち着いていく。

 自分を理解した上で接してくれる大人の側はとても居心地が良いものだ。


 美佐子は「そうね」と少し考えてから、


「平野はキーダーを悪く言ってたけど、あの日迎えに来たキーダーはそんな風には見えなかったのよ」


 国の管理下にあるキーダーは国民を守るための盾で、キーダーになるということは国の奴隷になる事だと平野は吐き捨てるように言っていたものだ。

 だからこそ、彼が下したキーダーになるという決断を修司はいまだ理解できずにいる。


「でも平野さんは連行されたんですよね、無理矢理……」

「その場に居たわけじゃないから詳しくは分からないけれど、そのキーダーが美人さんだったから、あの人が惚気のろけちゃったのかもしれないわね」

「女の人? 美佐子さんはその人に会ったんですか?」

「偶然ね。まだ寒い頃だったでしょ? 平野が意固地に逃げ回るものだから、その娘ここに張り込んで、高熱出して倒れてたのよ。私も慌てて平野に連絡しちゃって。本当は嫌だったんだろうけど、あんな性格でしょ? すっ飛んで来たわよ。完全にあの人の負けね。だから、無理矢理って表現はちょっと違うのかもしれないわ」


 突然姿を消した平野がキーダーになったことは、伯父から聞いた情報だ。

 少し前に東京でキーダーの居る施設がバスクに襲われる騒動があり、テレビで流れたニュースに彼がキーダーの制服姿で映っていたらしい。


 「ここよ」とそのキーダーが倒れていた場所を指差す美佐子。

 危険因子きけんいんしであるバスクを捕まえるは、キーダーの仕事の一つだという。


「私が平野に会ったのは、それが最後。キーダーってのは、私みたいなノーマルには遠い世界の話だけど、一概に善悪を決めつけるものではないと思うわ」


 修司は美佐子をずっと祖母のように思っていたが、その時の彼女の言葉は母の口から語られているもののように感じられた。


 キーダーは英雄だ。

 昔、東京に隕石が落ちてきて、キーダーがその類まれな力で人々を救ってくれたという。

 キーダーは英雄だ。

 だから「同じ力を持つ貴方は何も恐れることはない」と、ずっと母親に言われてきた。

 キーダーは英雄だ。

 けれど、その言葉の意味が幼い修司には良く理解できなかった。力の存在を誰にも言ってはならないと教えられていたからだ。


 そんな母は、修司が十歳の時に死んでしまった。病床びょうしょうで看取られた最後の母は、修司の力を心配することもなく、ただようやく父の元へ行けると、穏やかな表情で目を閉じた。


 平野との出会いは、そのすぐ後だ。初めて自分と同じバスクに会えたことが嬉しくてたまらなかった。

 颯太は哀しそうな眼をしていたが、訓練を買って出た平野に頭を下げたという。


「別れが言えるのはいいものね。あの人は何も言わなかったから」


 美佐子が溜息交じりに苦笑する。

 修司は店の前に立ち、黒い鉄扉に貼られた紙にそっと触れて目を閉じた。呼吸を整えながらてのひらに集中すると、指先の神経が冷たい感覚を捕らえる。

 もうここに平野は居ない。


「平野さんはきっと、別れだなんて思ってないんですよ。休業、ですからね」

「なら、修ちゃんともさよならは言わないわよ? たまには顔を見せに帰って来てね」


 「はい」と頭を下げる修司を、美佐子は「いってらっしゃい」と手を振って送ってくれた。



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