【番外編】6 ハッピーバースデー

 『大晦日の白雪しらゆき』が起きた翌日。

 全てを失った夜が明けた元日の空は、前日の雪が嘘のように晴れ上がっていた。

 現実を受け入れることができないまま雅敏まさとしのマンションで一夜を過ごし、15歳の桃也は早朝からアルガスへ移動する。


 アルガスの担当だという警部の森脇と雅敏を相手に、事件や今後の話をした。

 自分が能力者だという自覚はない。

 昨日起きた事態がまだ他人事のようで、頭の整理がつかなかった。

 曖昧な返事と突然襲ってくる衝動に泣き喚くのを繰り返すと、あっという間に昼になった。


「スマン。ちょっと荷物が多くてな」


 そんな前置きを入れて雅敏に案内されたのは、アルガスにある彼の自室だ。扉を開けると、染みついたタバコの匂いが冷えた空気と共に桃也を迎える。

 テーブルを埋めるほどに積み上がったファイルと紙の束、それにぎゅうぎゅう詰めの本棚から床にまで溢れた本は、お世辞にも『ちょっとの荷物』とは言えない。


 部屋の様子に困惑しながら、桃也とうやは促されるまま席に着いた。

 雅敏は目の前のテーブルの書類を別の山に乗せてスペースを確保すると、食堂で受け取った大皿を桃也の前に広げる。


「昼飯食って、ここで待っててくれるか?」


 落ち着く暇もなく、雅敏は並んだおにぎりを一つつまんでかぶりついた。


「俺は上と話してくるから、お前はここで休んでろ。昨日あんまり寝てないだろ? トイレもすぐそこだし、何かあったら内線の五番で呼んでくれ」


 雅敏は二個目のおにぎりを口に押し込んで、書類の山に挟まれた窮屈きゅうくつそうな白い電話を親指で指した。

 「すまんな」と残して、彼は慌ただしく部屋を出て行く。


 一人取り残された桃也は、まず昼食を済ませた。

 食欲などなかったが、成長期の身体が欲して何とか完食することができた。しかしそれも済んでしまうと他にやる事はない。


 部屋にテレビはあったが、昨夜の風景が映るだろうと思うと電源を入れる気にはなれなかった。本棚にある小説をパラパラめくって字を追っても、内容が頭に入ってこない。


 部屋に差し込んだ光に引き寄せられるように窓辺に立つと、遠くに海が見えた。

 桃也は雪解けの暖かい日差しに長く息を吐き出す。

 これから何をすればいいのかさっぱり分からない消失感に苛まれながらも、昨日会ったばかりの雅敏が側に居てくれることを有難いと思った。


 急に睡魔に襲われて、桃也は部屋の隅に置かれたリクライニング付きの椅子へと移動する。全てが夢ならいいのにと思いながら目を閉じると、そのままうたた寝をしてしまったらしい。

 突然バタリと開いた扉にハッと目を覚まし、桃也は息をひそめた。

 すっかり夕方の色に染まった部屋に、誰かが唐突に飛び込んでくる。

 その細いシルエットから雅敏でない事は分かった。


 見えない相手に昨日の恐怖が蘇る。ニヤついた男の顔が浮かんで、ヤツはもうこの世界に居ないのだと自分に言い聞かせた。


 しばらく様子を伺うと、後ろ手に閉めた扉に背を当てた影は急に泣き出す。

 女だった。桃也には気付いていないらしい。

 照明もつけずに彼女はひくりひくりとすすり泣く。突然声でも掛けたら、ひどく驚かせてしまう気がした。


 雅敏の部屋で彼女が涙を流す意味を考えるのと同時に、桃也は彼女から不思議な気配を感じていた。

 アルガスに来てからずっと感じていたものと同じだ。それが彼女と距離を詰めたことで一層濃く感じる。


 張り詰めた緊張を打ち破ったのは、廊下から響いた雅敏の足音だった。


「悪い、もう少し掛かる――って、あれ? 何してんだよ、お前ら――」


 すっかり暗くなった部屋にカチリと音を立てて照明がつく。

 闇に慣れていた目を細めると、彼女が困惑と驚愕の入り混じった涙目で桃也を見つめていた。


「……お前ら、って」


 自分と大して歳の変わらない少女だった。

 まずいと思って目を逸らすと、雅敏が「何だよ」と呆れて腕を組む。


「俺はてっきり挨拶くらい済ませてるのかと思ったぜ」

「彼がいるなんて聞いてなかったもん」


 あっけらかんと言い放つ雅敏に、彼女の顔がみるみると赤く染まっていく。肩までの短い髪を揺らしながら、彼女は充血した瞳で小さく頭を下げる桃也を振り返った。


「あんまり一人にさせとくのも良くないと思ってな。説明不足で悪かった。もう少し掛かるから、二人で待っててくれるか?」


 雅敏は一方的にそんなことを言って、「頼むぞ」と再び廊下へ出て行ってしまった。

 お互いの説明もないまま、ただじっと見つめ合った数秒間。彼女は無理に笑顔を作って桃也を呼んだ。


「こ、こっちに来ない? 桃也くんでしょ?」


 彼女の大きな瞳の下に、うっすらとクマが貼り付いている。

 「はい」と一つ頷いて、桃也は彼女の前に立った。

 ヒールを履いた彼女の背は見上げるほどに高い。止まらない涙の衝動を必死に堪える彼女に促されて、桃也はソファに座る彼女の横に並んだ。


「何か、あったんですか?」


 涙を覆った手の震えを見過ごす訳にはいかなかった。

 ぐしゃりと歪めた顔で「ごめんね」と囁く彼女の手首に、銀色の環が光る。


「キーダーなんですか?」


 左手首の銀環ぎんかんは、国に認められた能力者の証だ。出生検査で陽性が出るとただちにキーダーがやってきて、その環を赤子の手にはめていくという。

 一般人だった桃也には都市伝説のような話だったが、実際にそれを目にして急に現実を突きつけられた気がした。


 彼女は「そうだよ」と力なく頷く。「もう泣かないから」と努めて明るく振舞おうとするが、その気持ちを逆らって大粒の涙が床に落ちた。


 涙の理由が昨日の事だと悟って、桃也は思わず彼女から目を反らす。

 キーダーはバスクから人々を守るのが仕事だ。持っている力は同じ筈なのに、銀環の有無で敵と味方に分かれてしまう。

 自分はバスクなのだろうかと考えて、桃也は左小指にはめられた花の指輪を右手でそっと抑えた。銀環とほぼ同じ役目をすると言われた指輪だ。


 今アルガスで桃也の能力を知るのは、ここで一番偉い長官だけだと雅敏は言っていた。だから、彼女は何も知らないのだ。彼女にとっての自分はあくまでバスクに家族を殺された遺族にすぎない。


 彼女に本当のことを話すべきか迷ったが、言い出すことが出来なかった。結局「黙ってろ」と言った雅敏の言葉に従って、罪悪感を胸に籠らせた。


「私はキーダーなのに何もできなかった。だから、今の私にできることなら何でも言って」


 憔悴しょうすいしきった表情は、昨日の悲しみを彼女が一人で吸い取ってしまったような気さえしてしまう。

 何もできなかったのは桃也も同じだ。宍戸家から家に戻った時点で全てが終わっていたのだ。

 あの時より前に戻ることが出来なければ、事態は何も変わらない。


「だったらもう、泣かないで下さい」


 彼女は何も悪くないのだから。

 「分かった」とぐしゃぐしゃの顔で答えて、彼女は「なら」と突拍子もない提案を口にする。


「ハッピーバースデーの歌、歌ってくれる?」

「……はぁ?」

「今日ね、私の誕生日なんだ」


 こんな時に彼女は突然何を言い出すのだろうか。

 けれど、それで少しでも彼女の気持ちが晴れるならまぁいいかという気分になって、桃也は「分かりました」と承諾した。

 こんなことがなかったら、彼女もきっと誰かに祝ってもらっていたのかもしれないが、この状況でそんな余裕のある人はいないのだろう。

 芙美も、女にとって誕生日は特別なのだとよく言っていた。


「ハッピーバースデー、トゥ、ユー」


 彼女へ向いてメロディを口ずさんだ所で、桃也は彼女の名前を知らないという難関を抱えていることに気付く。

 ハミングでやり過ごそうかと考えている間に、曲は名前を言うタイミングに差し掛かってしまった。

 ぎこちなくテンポを緩める桃也に、彼女は「ん?」と一瞬不思議な顔をするが、すぐに察して「京子です」と口にする。


「ハッピーバースデー、ディア、京子さん」


 ストレートなメロディに、京子は「うん」と真っ赤な目で微笑んだ。


「こんな時にごめんね」


 京子はまた涙ぐんで、照れ臭そうに「ありがとう」と笑顔をにじませる。


 それが前日に全てを失った桃也と、何もできなかった京子の初めての出会いだった。




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