41 アイドルの失恋ソング

 チリンと音の鳴る格子扉を開けると、マスターがハリウッドスターの吹き替えさながらの低音ボイスを響かせて「いらっしゃいませ」と二人を迎えた。

 綾斗あやとが白く曇った眼鏡を外してぺこりと会釈えしゃくする。


 淹れたてのコーヒーの香りに包まれた喫茶『恋歌れんか』は、アルガスの裏通りにある小さな店だ。

 どこか懐かしさを思わせる落ち着いた店内には、旅好きのマスターが描いたカードサイズの風景画がいくつも飾られている。

 夕方のせいか他に客の姿はなく、京子はカウンターに近いテーブル席についてマスターを振り返った。


「私はいつものブレンドで、彼にはホットミルクを。それと、プリンアラモードを二つ下さい」


 「かしこまりました」とサイフォンをセットしながら、マスターは穏やかに微笑む。

 アルガスの施設員も多く利用するこの店を何十年も営んできた彼は、もしかしたらアルガスいちの事情通なのかもしれない。


綾斗あやとはここ来るの初めて? 残念ながらモンブランはないから、私のオススメね」

「ありがとうございます。こんな所があったんですね」

「私はよくサボりに来てるけどね」


 先に運ばれてきた水を飲み、京子は店内を見回した。

 マサが桃也とうやの母親とここを訪れたという状況を想像してしまい、何ともいえない気持ちになる。その母親はもうこの世にいないのだ。


「綾斗は落ち着いた? さっきちょっと元気なかったけど」

「俺はいつも通りですよ。京子さんこそどうなんですか?」

「私は全然ダメ」


 はっきり答える京子に、綾斗は苦笑する。


「この間も話したけど、私はずっと『大晦日の白雪あの日』の犯人を見つけたかったの。桃也の家族のかたきを取りたいって思ってた。それなのに昨日の話を聞いて、どうしていいのかわからなくなっちゃったよ」

「仕方ないですよ。俺でさえ混乱してるんですから」


 『大晦日の白雪しらゆき』は、強盗に家族を皆殺しにされた桃也の絶望と怒りが引き起こしたものだ。所謂いわゆる、バスクの暴走である。


「事実を知って驚いたってのもあるけど、ずっと一緒に居たのに桃也の力に気付けなかった自分も情けなくて」


 そして、期限付きとはいえ彼が家を出て行ったことが寂しかった。

 込み上げた涙を堪えてまぶたに熱いおしぼりを押し付けると、店内に流れる恋愛ソングが、タイミング悪く失恋ソングに切り替わる。


 店の名前が表すように、ここで流れるBGMは恋や愛の歌ばかりだ。ただ、そこに失恋ソングが混じることも多い。


「この曲最近良く聞くよね。すごく流行はやってる」


 少し前にデビューした、五人組アイドルユニット『ジャスティ』の二枚目シングルだ。テレビ界に突如とつじょ現れた彼女たちを見ない日はない程、今音楽業界はジャスティを売り出している。

 メンバーと同世代の中高生に絶大な人気だと、この間朝の情報番組が騒いでいた。


 アップテンポの曲でありながら、歌詞は悲恋を歌っている。強い女子だなと京子は思った。


「綾斗もこういうの聞くの?」

「いえ、あんまりテレビ見ないんで」

「駄目だよ、流行りものは一応頭に入れといたほうがいいよ」

「そういうものなんですか?」

「まぁね」


 綾斗はスピーカーのある天井を仰いで、再び京子へと視線を落とす。


「早く桃也さん帰ってくるといいですね」

「そうだね」


 書き置きには「数日で戻るから」と書いてあったが、期間は曖昧あいまいだ。

 彼は自分の能力をどうしたいと思っているのだろうか。


「男と女って、好きだけじゃダメなんだね」

「気を取り直せって言っても無理かもしれませんけど、指輪の事もあるし自信持って下さい」


 ――「それ見て俺の事思い出してくれたら、少しは立ち止まって冷静になれるんじゃねぇかって」


 桃也に聞いた、指輪の意味だ。左の薬指を見てこくりとうなずくと、綾斗が「そうだ」と手を打った。


「願掛けでもしてみたらいいんじゃないですか? ほら、京子さんが出張の時、桃也さんと連絡取らないのと一緒ですよ。この機会に、願い事が叶うまでお酒を飲まないとか」

「私、一人の時は飲まないよ?」

「そうなんですか? 俺てっきり……」

「毎晩深酒しそうだとでも思った?」

「しないんですか?」

「しないよ。一人で飲んでも楽しくないもん」


 綾斗に醜態しゅうたいさらしてしまったが、普段はほとんど飲まない。

 いぶかしげに京子を覗き込んだ綾斗が納得できない様子で「意外です」とらした。


「お酒はね、誰かと話がしたくて飲んでるんだよ。そうすると、少し素直になれるから」

「だったら俺付き合いますよ?」

「今飲まないでって言ったのに、そんなこと言う?」

「あぁそうか」

「けど、ありがとね。落ち着いたらまた付き合って。とりあえず桃也のことは待ってみるよ」

「了解しました」


 綾斗が背後の気配に振り返ると、マスターが銀色のトレイを手にカウンターから出てきた。


「楽しそうですね」

「うわぁ、美味うまそう」


 目の前に出されたデザートに、綾斗がパッと笑顔を広げる。

 信楽焼のカップに入った湯気の立つミルクと、白い陶器の器に入ったプリンアラモードだ。

 てんこ盛りの生クリームと果物の上にカラメルソースをかけ、綾斗は「いただきます」と満足そうに頬張った。


「ね、美味しいでしょ? 私の大好物だよ」


 プリンアラモードと特製ブレンドが、京子の定番だ。他にも幾つかメニューがあるが、滅多にそれを食べることはない。

 カラメルがけのクリームをいっぱいに口に入れ、京子は次に流れ出したジャスティのデビューソングに鼻歌を鳴らす。

 曲がサビに入ったところで、思いもよらぬ客が扉の鈴を鳴らして入店してきた。


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